住吉大社

住吉区住吉2-9-89(平成18年1月4日)

この神社は、わざわざ説明する必要が無いほど有名な神社です。南海本線に住吉大社と言う駅が有るくらいです。式内社(名神大社)、二十二社、摂津国一宮、旧社格は官幣大社。現神社本庁の別表神社となっております。又、博多の住吉神社下関の住吉神社、と共に日本三大住吉とされています。

初詣の人が押し寄せる所が各地にある。関東だと明治神宮、川崎大師、浅草・浅草寺、成田山新勝寺などが頭にうかぶ。京都なら平安神宮、八坂神社などか。ここ大阪ならきっとここ住吉大社だろう。なんと言っても摂津の国一之宮ではないか。大阪中の人間が集まるに違いない。そう決めた我々は新大阪のホテルを暗い内に出て、ここ住吉大社へと向かったのでした。

写真のタイムスタンプを見たら7:04でした。未だ薄暗い。やはり関東より朝は遅いようだ。でも人影がちらほらと見える。駅は写しそびれたが、商店街左手が南海本線「住吉大社駅」。正面入り口前に見える線路は阪堺電軌鉄道。何と住吉鳥居前という駅(停留所?)になっている。日本一の初詣参拝者数を誇る明治神宮だって、最寄り駅はJR原宿駅だ。我々も帰ったら原宿駅を「明治神宮駅」と変える様にJRに陳情しようと考えています。大阪に負けてなるものか。でもそんな事をしたら、原宿商店街の人間に殺されてしまうでしょうか。

南海本線「住吉大社駅」をはさんで反対側の住吉公園。神社創建の頃、ここは海辺であったそうな。江戸時代は海も後退し26号線の公園入口あたりが「出見の浜」と呼ばれた浜辺で、潮干狩りなどしていたそうです。ここは明治初年まで住吉大社の馬場であったとか。ところが明治政府は何を考えたか知れないが大阪にも公園が必要ではないかと言い出したらしい。確かに武士の町、江戸に比べると、町人の町、大阪は緑が少ない。当時の感覚では馬場より公園の方が、かっこ良いと思ったのだろうか。ところで、神社の由緒書きを見て戴ければ解るのだが、「住吉」の字。古くは「スミノエ」と読んだそうだ。この公園の住所は大阪市住之江区。大阪人は地名を付けるのが上手だ。東京の西部にかって田無市、保谷市があったのだが、合併したら何と西東京市。解かりゃ〜いい!。そういうもんじゃね〜だろう。そう言えば大阪にも東大阪市という味気ない地名があったっけ。

かってはここも参道だったようです。あまり見たくない昭和岡崎がこちらを睨んでいます。後ろに見えるのが南海本線「住吉大社駅」。電車の線路で参道を幾重にも切り刻んでしまったようです。海難時、住吉大神を祈っても救って下さるのだろうか。住吉大神はこう告げられたではありませんか「大きな港があって玉のように美しく細く突き出た場所に鎮まりたい」。だからこの地にお祭りしたと、住吉大社公式サイトに書いてあります。東京湾も相当埋め立てたが、大阪湾も埋めすぎです。東京の住吉神社でさえ隅田川に面しています。

見上げる様な灯籠。600もあるそうだ。流石、天下の台所。北前船の起点であり終点であった大坂。大阪の大商人達だけでなく、日本海側の大商人も航海の安全を願って、競って奉納したことでしょう。

元文元年の狛犬。浪花ではありません。残念ながら大阪では参拝神社数が少なく、どこに分類すべきか、結論が出せません。阿は耳垂れ、吽は耳立ちです。浪花より男性的で力強く感じます。

元文元年(1736)6月吉日

帰宅後調べると、この間にもう一対居るようです。しかし屋台で塞がれていて、どうしようもありません。

反橋(そりばし)。太鼓橋とも呼ばれ、昔はこの橋の近くまで波が打ち寄せられていたそうです。これも淀殿が狸親父、家康にたぶらかされ、慶長年間に寄進させられたようです。和歌山県伊都郡かつらぎ町鎮座、丹生都比売神社の輪橋も同じ経緯で造られたようです。

住吉大社と兎
兎(卯)は当社の御鎮座(創建)が神皇后摂政十一年(211)辛卯年の卯月である御縁により奉納されたものです。左手由緒書きより。

住吉鳥居と呼ばれている四角注の柱で造られた珍しい鳥居。そのため角鳥居とも呼ばれているようです。

伊邪那岐命は、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命を追い、黄泉の国へと行ったが、妻を連れ戻す事は出来ず、逆に汚れを受けてしまう。その汚れを清めるために海に入って禊祓いしたとき、住吉大神である底筒男命、中筒男命、表筒男命が生まれまたという。この三神を総称して住吉大神と申上げ・・・と由緒書きにあります。後、神功皇后を併せ祀り、住吉四社大明神となった。

底筒男命(そこつつのをのみこと)を祀る第一本宮 中筒男命(なかつつのをのみこと)をを祀る第二本宮
表筒男命(うわつつのをのみこと)を祀る第三本宮 神功皇后(じんぐうこうごう)を祀る第四本宮

羽曳野の応神天皇陵や、堺の仁徳天皇陵に見られる巨大古墳。この古墳群を見ていると、応神天皇で始まり武烈天皇で終わる河内王朝の存在を考えざるをえない。いわゆる「倭の五王」の時代で大陸との交通も盛んなこの王朝が奈良の山奥でなく、海に面したこの地に栄えたのは当然だろう。その王朝の守護神住吉三神に神功皇后が加わって住吉大社の御祭神となっています。その神功皇后とは、応神天皇の母ということになっているが、本当は河内王朝の皇祖神だったのではないでしょうか。

これが国宝の住吉大社本殿。「住吉造」といわれ最古の特殊な様式のようです。

誉田別尊と武内宿禰を祭る若宮八幡宮

以上で神功皇后三韓征伐の登場人物が出そろったのでしょうか。この地が河内王朝によって統一された後、この方々は神となり、王朝の守護神としてここ、住吉大社に祭られたのでしょう。河内王朝が武烈天皇で絶え、越前の継体天皇によって大和へと移って行くのだが、20年も河内にいたらしい。要するに、実態は河内王朝の実力を背景に、武力で大和王朝を倒したのでしょう。そうで無ければ、後天皇家をおそった大事件の説明がつきません。宇佐八幡の「道鏡を天皇の位につければ天下は太平となる」という神託。そもそも、赤の他人が他家の相続に口をはさむでしょうか。又、天皇家も、うちの氏神様は伊勢神宮の天照大神よ!。と言って笑っていればよかった筈です。

住吉大社公式サイトはこちら。

住吉大社御旅所はこちら。