霧島神宮

霧島市霧島田口2608-5(平成21年1月6日)

東経130度52分21.17秒、北緯31度51分9.75秒に鎮座。

 この神社は鹿児島・宮崎の県境に鎮座しています。どこから行ってもとても時間がかかりますが、有名神社なのでとても参拝客が多い神社でした。
 駐車場から左に降ると朱の大きな二の鳥居が建っています。ここから石段を下りた223号線沿いに一の大鳥居が建立されているようですが、今回は知らなくて行きませんでした。
 二の鳥居を潜ると広く真っ直ぐな参道が続き、突き当たりの広場に磐座と現代に甦った龍馬とおりょうさんがいました。
 そこから参道は北東に向きを変え、石段を上がると三の鳥居、その後も杉木立の中の参道は続き、遠くに明るく開けた場所が見えますが、そこが境内でした。境内に近づくにつれ、大きく華麗な、そして荘厳さも兼ね備えた社殿が見えてきますが、いざ境内に入るとその余りの大きさに、かえって勅使殿と東西長庁しか見えなくなります。
 社殿手前には左右の門守神社が祀られ、勅使殿脇から奥を覗くと、登廊下と拝殿、渡廊下、神饌所と共に、僅かに本殿の屋根だけが見えました。又、拝殿右脇には税所神社も祀られていました。
 西の日光とも称せられる社殿ですが、お正月には社殿の前には大きな賽銭箱が設えてあるので近くには寄れず、細部を拝見することは出来ませんでした。
 豊かな自然の中に鎮座する神社で、本来ならば素晴らしい雰囲気の境内社域の雰囲気が味わえるのでしょうが、この日は初詣の方達が多すぎて、静かで神寂びた雰囲気は微塵も感じられませんでした。残念です。

 御祭神:天孫瓊瓊杵尊、 相殿:木花開耶姫尊、彦火火出見尊、豊玉媛尊、鵜萱草葺不合尊、玉依姫尊、神武天皇
 祭礼日:歳旦祭・1月1日、初日供祭・1月2日、元始祭・1月3日、散籾祭・2月18日(旧暦1月1日)、御田植祭・3月3日(旧暦2月4日)、講社大祭・4月3日、狭名田の長田御田植祭・6月第一日曜、大祓式・6月30日、12月31日、献灯祭・8月5日、南九州御神楽・8月最終土曜 、例大祭・9月19日、古例祭・旧9月19日、天孫降臨記念御神火祭・11月10日、新嘗祭・11月23日、除夜祭・12月31日、猿田彦命巡行祭・春秋4回、朔日祭・毎月1日、月次祭・毎月19日
 境内社:門守神社、税所神社、若宮神社、鎮守神社、山神社
 由緒:欽明天皇の時代、慶胤という僧侶に命じて高千穂峰と火常峰の間に社殿が造られたのが始まりとされます。
 しかし、火山の麓にあるという立地のためたびたび炎上し、天暦年間には性空により瀬多尾越(現在の高千穂河原・古宮址)に遷されましたが、ここもたびたび噴火の巻き添えで炎上してしまいます。
 文明16年(1484)、島津忠昌の命により兼慶が再建したのが、現在の霧島神宮です。但し、建物はその後も幾度も炎上し、現在の社殿は正徳5年(1715)、島津吉貴の奉納により再建した物です。
 明治期の神仏分離令が発令されるまでは西御在所霧島権現と称し、本地堂は十一面観音。別当寺は華林寺で、 霧島山を中心とした修験僧による霧島六所権現信仰の中心的役割を果たしていました。
 歴代島津氏の尊崇が篤く、島津義久は、天正6年(1578)耳川の戦いに臨む途中に参拝して鬮を引き、また九州北上にあたっても天正14年(1585)6月に日向国惣先達職の面高善哉坊と重臣山田有信を、再び9月に吉田清存を、それぞれ遣わして鬮を引き侵攻方面を決めるなど、重要事の決定に際したびたび神慮を仰いでいます。
 また、御神木の杉は樹齢約800年と推定され、南九州の杉の祖先ともいわれています。
 もともと霧島山一帯が霧島神宮の境内でしたが、明治4年(1871)の廃藩置県の際に霧島山の頂上に沿って県境が引かれ、宮崎県内は神宮境内から外されました。明治15年(1882)にはさらに7810ヘクタールが削減され、昭和21年(1946)の日本国憲法制定による宗教法人化で山林の大部分は日本国に譲渡されましたが、その後、祭典行事に必要な789ヘクタールが神宮へ返還されています。
 本殿・幣殿・拝殿・登廊下・勅使殿は国指定重要文化財となり、門守神社・2棟、神饌所は「附」(つけたり)指定となっています。
 鹿児島藩主島津吉貴の寄進で、正徳5年(1715)に建立されました。社殿はいずれも朱塗りの華麗なもので、特に本殿は内部も豪華に装飾され、柱、梁、長押などはすべて朱漆塗りとした上に要所を彩色文様や鍍金の飾り金具で装飾し、壁には極彩色の浮き彫りを施した羽目板を配するなど、贅をこらしています。神社建築で、外部だけでなく内部までこのように装飾をこらしたものは珍しく、「西の日光」と言う別名を持っています。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 鎌倉時代になって、霧島山の大噴火があり、社殿を焼失、その後、社殿を山の東にあたる長尾山に移し、東霧島神社と称した。文明一六年(一四八四)、島津忠昌は、この社を東西両社に分け、東社を瀬戸尾に遷座、この社が現在、宮崎県西諸県郡高原町の霧島東神社である。西社は、大隅国姶良郡田ロに建てられこれが、現在の霧島神宮である。当社は、明治七年(一八七四)迄は、霧島神社と称され、また霧島西御在所六社権現とも称されて、薩摩藩歴代の篤い尊崇と衆庶の崇敬を集めてきた。別当寺の霧島山錫杖院華林寺は、霧島六社の別当寺を全部統轄、霧島六社権現の中心的役割を果してきた。
(神社辞典より)

霧島六社権現(六所権現社)とは
 霧島神宮(西御在所霧島権現 別当・華林寺)(鹿児島県霧島町)、
 東霧島神社(東霧島権現 別当・勅詔院)(宮崎県都城市高崎町)
 狭野神社(狭野大権現 別当・神徳院)(宮崎県高原町)
 霧島東神社(東御在所霧島権現 別当・錫杖院)(宮崎県高原町)
 霧島岑神社(霧島中央権現 別当・瀬多尾寺)(宮崎県小林市)
 夷守神社(雛守権現 別当・宝光院) (霧島岑神社と合併の為現在は五社となっています。)
の六社のことで、これらの神社を六社権現として整備したのは十世紀、村上天皇の頃 天台法華仏教を奉じ、修験道の信仰を確立した性空上人でした。性空上人は霧島でも修行し、霧島山信仰を体系づけたといわれています。

霧島神宮公式サイトはこちらで

境内案内図はこちらで

参道の二の鳥居 真っ直ぐに伸びた参道の様子
磐座と現代に甦った龍馬とおりょうさん
さざれ石
ここから参道は北東に向きを変えます
参道途中の三の鳥居 杉木立の中の参道
境内と社殿全景
社殿手前左側の境内社:門守神社
社殿手前右側の境内社:門守神社
勅使殿と東西長庁
勅使殿向拝彫刻
勅使殿木鼻・狛犬と象
登廊下と拝殿
神饌所 渡廊下
本殿屋根
拝殿脇に祀られる境内社:税所神社
神池 絵馬
霧島神宮の南東約200m程に有る「霧島神宮斎田」