住吉八幡宮

下関市豊北町大字神田3901 (令和元年7月23日)

東経130度54分22.00秒、北緯34度21分07.02秒に鎮座。

この神社は、JR山陰本線・阿川駅の北西2.5km程の辺り、神田の街中に鎮座しております。

  祭神
右 住吉大神
中 神功皇后・応神天皇
左 仲哀天皇

由緒
当神社は14代仲哀天皇の御代197年大和朝廷(約1800年前)に神功皇后は三韓(高句麗、新羅、百済)に出兵のみぎり、航海安全、海上守護神として穴戸向津久の対岸平保の地(今日も当地に宇、平保有り)に住吉大神を鎮座し東門の鎮護(東の海上守護)とされた。
「尚、この時西門鎮護(西の海上守護)は九州筥崎の宮とされたが、後に延長元年(923)に長門亀山八幡宮を以って西門鎮護となる」
のち、住民の移動と共に(養老年中、奈良時代717〜23)この住吉大神は長羽山(別名、馬城山、高壺山)の山頂に御遷座された(今日も山頂に巫子屋敷と言う社地が残って土器や瓦が出る。高壺山の住吉大神と鬼の伝説は有名である)。
其の後、建久2年(鎌倉時代1191)に豊田の郡司7代藤原種弘は現在の社地字西の宮に、宇佐八幡宮の御分霊を御勧請し、往古より当地に御鎮座の住吉大神とを合祭し、社名を「住吉八幡宮」と改め海上交通安全、海幸産業の守護神として島戸村・附久野村・大久保村・肥中村・特牛村・荒田村・鳴滝村・堀越村八ヶ村、神田郷の総氏神として社殿を建立した。
往古、例祭日には神官が拝殿の両方に座し引き受場の氏子に御神米を渡し御社田の耕作を引き受けさせたとある。これは村々に御社田が多く、今日に神田と言うはこの社田から出た地名である。・・・・・
境内由緒書き より。

参道入口

参道

拝殿

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

拝殿内部

本殿覆屋


金毘羅社