筥崎宮

福岡市東区箱崎1-22-1 (平成22年4月2日)

東経130度25分32.8秒、北緯33度36分40.8秒に鎮座。

この神社は、博多湾のほぼ中央、東区箱崎に鎮座しております。海岸より続く参道は800m程もあり、社地の広大さを伺うことが出来ます。博多の市街地にあり、又、大神社で参拝者も多数いる神社ですが、重厚な社殿が緑に囲まれ、落ち着いた雰囲気のなか静かに参拝出来ました。

筥崎宮(別表神社)
御祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命
由緒
応神天皇を主神とし、神功皇后と玉依姫命を配し祀る。同地は大陸に正面する地点であり、国防、文化交流の要衝として古くから八幡神を祀っていた。延喜二十一年(921)藤原真材朝臣が神託によって社殿を造営。中世以降筥崎八幡宮として篤い崇敬を受けた。本殿、拝殿、楼門は、安土・桃山期の豪壮な建築で、国の重要文化財である。
神社名鑑より。

筥崎宮(はこざきぐう)は、福岡県福岡市東区箱崎にある神社。筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)とも呼ばれる。式内社(名神大)で、旧社格は官幣大社。

応神天皇を主祭神とし、神功皇后と玉依姫命を配祀する。大分県宇佐市の宇佐神宮、京都府八幡市の石清水八幡宮とともに日本三大八幡宮の一つとされる。博多区住吉の住吉神社とともに筑前国一宮とされる。「はこ」の字は円筒状の容器を意味する「筥」が正字であり「箱」ではない。ただし同宮が在する地名・駅名などは筥崎宮の「筥崎」では筥崎八幡神に対して恐れ多いという理由から「箱崎」と表記する。

延喜21年(921年)6月21日に八幡神の託宣があり、筑前国穂波郡(現飯塚市)の大分宮を玄界灘に面した土地に移したのに始まる。延長元年(923年)に現在地に遷座。延喜式神名帳には「八幡大菩薩筥崎宮一座」と記載され、名神大社に列している。

元寇の際に亀山上皇が「敵国降伏」を祈願し、以来、海上交通・海外防護の神として信仰されている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より

由緒書や境内案内図はこちら。

国道3号線より見る潮井浜。

潮井浜遠景

清めの真砂(まさご)を貰い受ける「お汐井とり」が行なえるよう、砂地が整備されているようです。神聖處と書かれています。昔は白砂青松と謳われた美しい海岸線を誇っていたが、博多港修築により1936年には護岸整備され、現在では北側に箱崎埠頭、南側に東浜埠頭と倉庫等が並び、正面は高速1号線です。昔日の景色は一変して今は見る影もない。博多の海岸全てを神聖處としてしまえば良かったと思います。

参道

金曜朝八時頃。参道途中の地下鉄・箱崎宮前駅から、会社等へと向かう人達が見られます。

国指定文化財、一の鳥居。ここでは、本殿より数えて一の鳥居、二の鳥居と呼ばれます。

黒田長政により慶長14年(1609)に建立。鳥居の柱は3つに切れ、下肥りとなり台石に続く。笠木島木はひとつの石材で、先端が反り上がり、貫と笠木の長さが同じ。筥崎鳥居と称される。

鳥居前の籠神社型狛犬。拡大写真はこちら。

(大正2年(1913)5月建立)

境内

楼門

小早川隆景により文禄三年(1594)に建立。三間一戸の入母屋造。扉の桐紋彫刻は左甚五郎の作と言われる。「敵國降伏」の扁額は亀山上皇によって奉納された醍醐天皇の宸筆とされ、広瀬淡窓の「筑前城下作」の詩の伏敵門はこの楼門を指す。

「敵國降伏」と頼もしいこの勅額をデザインした切手を、大東亜戦争末期の昭和二十年に発行したようです。しかし時既に遅く、発売前に敗戦となってしまったようです。残念!

楼門より伺う拝殿と本殿。拡大写真はこちら。


御神木筥松
筥崎の御祭神、応神天皇が筑紫国宇美の里(糟屋郡宇美町)にてお生まれになった時(西暦200年)その御胞衣(おえな)を筥に納めて浪の音も静かな白砂青松の浄地に埋め標しの松を植えたと伝えられている。
それがこのところであって、その後この地を箱崎と称えこの松を「標の松」又は「筥松」といい御神木として尊んでいる。
千早振る神代に植えし箱崎の 松は久しき標しなりけり(法印行清)


西末社全景

西末社を護る浪速狛犬。拡大写真はこちら。


東末社全景

東末社を護る台湾狛犬。拡大写真はこちら。


絵馬殿

湧出石

筆塚


裏参道(東側)入り口