多久市郷土資料館

10、牟田辺 富岡権現    多久市南多久町下多久

 『丹邸邑誌』に「神躰彦山権現ヲ祀ル牟田辺村冨岡俗二飛丘一ト云二在り、北面、石祠拝殿九尺三問草葺(中略)祭十一月九日社務桐野山御所坊兼帯」と記され、堂の後に権現社石祠が祭祀され、境内には子供の神様や疱瘡の神様の坐像がある。堂は新四国八十八ヵ所の札所となり、弘法大師像や観世音菩薩像、宝筐印塔の一部が祭祀されている。冨岡権現については記録など存在しないためその起源は明らかでないが、権現石祠の形式は十七世紀後半から十八世紀初頭のものと推測され、冨岡権現が祭祀されたのもこの時期であろう。
 冨岡権現石祠の前に一対の肥前狛犬が奉納されている。向かって右側に阿像が、左に吽像が配置されている。阿吽像とも丈が低く、幅が広いずんぐり型で、一見壱岐島の猿岩を思わせる。正面形は前肢の下部が広がる台形に正方形の頭部が載った形状である。
 阿吽像とも頭頂部から口・顎にかけ板状で直線を駆使し、背の丸みを除いて角張っている。
 阿像は吽像より一回り大きく、頭頂に突起はなく、両側に小さな耳を付けている。たて髪は素毛であろうが表現されていない。顔全体が平で大きな口を開けている。前肢間および後肢は浅彫りで連結している。前肢は太く短く、一回り大きな足先を作っている。背は丸みを持ち、稜はない。尾はやや盛り上がった大きめの円形である。
 咋像も基本的には同じであるが、一回り小さく細身である。頭頂部に角の突起を持ち、角の突起と両側の耳が頭頂部に並ぶ。口は幅広い帯状の横線で閉口している。四肢や背は阿像と共通している。
 冨岡権現の肥前狛犬も多久を代表する肥前狛犬で、十七世紀後半から十八世紀初頭に製作されたものであろう。
(館内展示写真より転載)
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11、栗山神社    多久市多久町335

東経130度06分26.45秒、北緯33度15分52.79秒に鎮座。

 熊野権現を祭神とする神社で、創建の時期はわからなかったが、平成十六年に行われた神殿の一部改装で、寛永二十年(一六四四)の棟札が発見され、神社の創建の年と定められた。
 この神社に遺されている肥前狛犬は一体だけで、右前脚を失い、近年、左前脚も折れている。頭頂に一角を持ち、角から鼻までと、角からたて髪を経て尾にいたるまでの背稜は鎬の状態でつながっている。角の両側の耳は内耳を前に向け、角から左右に分けて浅い沈線でたて髪を表現している。目の上の眉と目の下の涙袋は連弧でつながり、その中に杏仁形の目があり、目玉を中央に浮き彫りしている。涙袋の下と頬にそれぞれ一本の沈線を施している。口は大きく開き、上下の歯並びが見え、阿像と思われる。顎下の胸部にはよだれすけのような枠を造り左右に四本ずつの沈線を放射状の曲線で刻み梳き毛としている。
 四肢はそれぞれ彫りだし独立している。尾は先端が太くなる棒状である。
 全体的に均整がとれ、面相の表情も豊かな肥前狛犬の秀作といえる。
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12、多久八幡神社    多久市多久町1758-5

東経130度05分41.42秒、北緯33度15分32.18秒に鎮座。

 建久四年(一一九三)多久太郎宗直が鎌倉鶴岡八幡宮の若宮八幡を勧請して創建されたと伝わり、若宮八幡宮と称していた。元亀三年(一五七二)龍造寺長信が神殿を再興し、以来十四回の修復が行われている。明治六年(一八七三)村社となり、大正十一年(一九二二)郷社に昇格した。昭和十六年(一九四一一)神社名を多久八幡神社と改めた。神殿の建築様式や彫刻など桃山期の特徴を留め、佐賀県重要文化財の指定を受けている。
 多久八幡神社には三対の肥前狛犬が奉納されている、拝殿前、拝殿内、社務所神前の三ヵ所である。
 拝殿内の棚に保管、奉納されている一対の肥前狛犬は、市内の肥前狛犬の中でも小形のものである。向かって右側に一回り大きい阿像を、左側に吽像が配置されている。丈が低い割には胴が長く、全体的に丸みをおび、どっしりとした臀部を持ち、地に這いつくばったように見える。長期間野外に置かれていたためか阿吽像とも風化が進んでいる。
 阿像は頭頂部はやや盛り上がっているが、角とは認めがたい。顔全体では耳の部分の幅が最も広いが、耳は小さい、たて髪は素毛で毛髪などの表現はなく、後頭部に段差をつけてたて髪を区切っている。盛り上がった眉にやや垂れ目状の目が接し、目の間から鼻根が伸び、太めの三角の鼻が頬の半分を占める。口は上唇と下唇をそれぞれ二本の線で示し開口している。前肢間は正面から見ると脚の輪郭がはっきりしないほどの浅彫りで脚は短い。前肢と後肢は浅彫りでつながっている。側面から見ると胴長で、背は幅が広く丸みを持ち、背稜は持たない。臀部はどっしり一として安定感を持つ。尾は確認できない、
 吽像は全体的に阿像と類似するが、前肢や腹部の一部が損傷し、阿像以上に風化が進行している。頭部の最も高い部分は背中の最も高い部分より低い。角は持たず、大きな鼻に穿孔している。口は横に一線を彫り閉口している。前肢は阿像以上に脚の輪郭が不鮮明で短い。前肢と後肢の間はさらに浅い彫りで連結している。背は丸みを持ち、尾はどっしりした尻のやや上部に薄い肉彫りの突起がついている。
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 八幡神社の社務所の祭壇に一対の肥前狛犬が奉納されている。この狛犬も市内では小形の部類に属する。神殿に向かって右側に阿像、左側に吽像が配置されている。側面の形状は円を四分の一にした形で、丈は低い。
 阿像は頭頂に角になる突起を持ち、たて髪は素毛で毛髪などは施さず、後頭部は段差をつけてたて髪としている。目は切れ長の輪郭の内側に切れ長の眼球を浮き彫りしている。三角形の大きな鼻は正面を向き穿孔はしていない。顔一杯に広がる口を開き上下に歯を刻んでいる。前肢は直立し、足先部分を深めに彫っているが連結している。前肢と後肢は地着面より僅かに削り、 独立した格好である。背は丸みを持ち、背稜は施さず、尾は持たない。
吽像は阿像より一回り小さいが、基本的な形状はほとんど同じである。頭頂に角はなく、大きな鼻は丸く穿孔している。一口は顔一杯に横線を刻み閉口している。前肢の足先は少し損傷している。背に丸い尾を持つ。十七世紀初頭に製作されたものであろう。
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 拝殿前に奉納されている狛犬は市内の肥前狛犬の中でも大形の部類に属し、均整がとれ造形美に富んだ狛犬である。盗難防止のため台石に固定されている。双方とも口は横に幅の広い切り込みを入れ、口が開いているよう見える。向かって左の像は歯並びと思われる沈線が僅かに見えることから口を閉じた吽像、右側の狛犬を阿像として取り扱うことにした。
 阿像は頭頂に丸い突起を持ち、両側には内耳が前を向き、耳の後でたて髪をまとめたような加工が見られ、後頭部から肩には十八本の梳き毛が垂れている。眉は隆起し、杏仁形の目の下に二重の弧を彫っている。目の回りを窪めているので眼球が飛び出したように強調されている。目と目の間の鼻根はくびれを持ち、低くて小さい鼻かぶらが広がり三角形の鼻孔を持つ。頬には外から内に深い切り込みが施されている、背は丸みをおび、背稜は持たない。四肢は前肢の間、および腹部と前肢の間を穿って四肢を造り出し、一応四肢は独立しているが、前肢と後肢は地着部で僅かに連結している。前肢は丸い円柱状で、内側に緩やかに湾曲し半ばに節を造っている。足先は一回り大きくして指を表している。背は丸みを持ち、背稜は施されず、背の上部から三枝状の尾をつけている。
 吽像の基本的な像容は阿像とほぼ同じであるが、部分的に若干の違いが見られる。頭頂の円形の窪みから隆起した突起が角を表す。顔の細部の彫刻は、阿像と同様の複雑な文様で構成されている。口は幅広の横線で、開いた口の間にかすかな格子状の沈線があり歯並びであろう。たて髪も阿像と同じ構成である。
 大きく異なるのは阿像の腹部が曲線であるのに対し、吽像は直線的である。また腹部の下の地着部が阿像は平板状に対し、吽像は刳り抜かれている。尾は先端に丸みを持つ人形状となっているなどの相違が見られる。
(館内展示写真より転載)

13、七面神社    多久市多久町撰分

東経130度05分26.79秒、北緯33度16分11.02秒に鎮座。

 七面神社の前身である都土明神が慶長十九年(一六一四)に再建されており、創建はそれ以前である。
 石祠前の一体の肥前狛犬は、正面形は長方形、側面形は円を四分の一にした形で、彫りが浅く、風化も著しい。頭部に角はなく、たて髪などの表現もない。額から伸びた鼻は大きく開くが高くはない。目は窪み眼球も明らかではない。口の部分も阿吽像の判断ができない状況である。背稜はなく、尾は僅かに突起の痕跡が残る。前肢は割竹形で前肢間の胸前の部分は平板化している。後肢とは浅彫りで連結している。十八世紀前期から中期に製作されたものであろう。
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14、天神山天神宮石祠    多久市多久町宮ノ浦

 三基の天神宮石祠が祭祀され、二基には丸彫りの菅原道真像が祭祀され、もう一基は屋根の形から十六世紀末から十七世紀初頭の造立であろう。中央の天神宮石祠には「肥前國小城郡多久荘宮浦村天神宮」の文字が刻まれ、この石祠に肥前狛犬一対が奉納されている。石祠に向かって左が阿像、右が吽像である。正面形は太くて短い足に大きな顔を持ち、大きな眼球が特徴的である。全体的には背丈が低く胴長の狛犬である、
 阿像は頭頂部が丸みを持ち角はない。耳は内耳を前向きにし、面部は半円形。大きな目の下に二本の弧線で皺を表し、鼻かぶらの大きな鼻・口・顎が前に突き出ている。鼻孔は丸形で浅く穿孔している。口は浅い沈線二本を横に彫り、口を開いた状態で仕上げている。頬には二本の沈線を刻み髭か皺を表している。たて髪は額から肩まで二十四束の梳き毛で表し、肩部で僅かに段差を持つ。顎下の胸部には十四本の沈線を縦に刻み梳き毛状に仕上げている。前肢と後肢は連結しないで独立し、太い四肢の前肢に大きな上半身を預けた格好である。背中は胴長のため緩やかな曲線を描いて尾に接し、尾は大きな剣葉状で鎬を持つ。背稜はない。
 吽像は阿像に比べてやや胴が短い。頭頂に突起はない。耳も阿像よりやや小さいが、内耳は前を向いている。口は一本の横線を刻み、閉じた状態を表現している。耳の後から二十二束の梳き毛をたて髪とし、肩口に僅かな段差を持たせ、背と区分している。胸部に十五本の沈線を刻み十四束の梳き毛の体毛を浮き彫りしている。目は丸形で大きく、目から下は平坦面を持ち、低い鼻は口まで伸び、口・顎は前に突き出ている。背はやや丸みを持って尾と接し、大きな剣葉状で鎬はなく、背稜もない。四肢は独立して彫られ太い前肢で体重を支えている。
 この狛犬が奉納されている石祠は十八世紀末の造立と推測され、また石祠の大きさに対し、狛犬がやや小さいなどの理由から、この狛犬は、当初は右側の古い石祠に奉納されていたと推測され、新しい天神社が造立されて、主役の座を失い、さらに狛犬まで失った可能性が強い。十七世紀初頭に製作されたものであろう。
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15、船山 大権現石祠    多久市西多久町板屋船山

 権現とは仏菩薩が衆生を救うために人や神に姿を変えて世に現れることで、神号として多くの神々にこの尊号が与えられた。山岳信仰の対象として修験者によって開かれた山に祀られることが多く、船山大権現石祠もその一つである。大権現石祠は、貞享元甲子(一六八四)十一月吉目、船山太郎兵衛を願主として造立されたものである。
 大権現石祠に奉納されている肥前狛犬は、向かって右側は頭部と前肢の一部を欠き、左側の狛犬も口の部分が欠損し、阿吽像の判断はできない。石材が軟らかい現地産出の砂岩であることに起因する。頭部を欠損した狛犬は、前肢が直立した縦長の形状で、割竹状の前肢を持ち、足先を大きく造り出し指先を表現している。前肢間の胸前は平板化し、後肢とは浅彫りで連結している。背は緩やかな曲一線を描き、腰部から尻部は垂直に近い曲線で地面に接し、尾は持たない。
 左側の狛犬は側面から見ると大きな尻をどっしりと地につけ、前肢の足先を前に出した三角形に頭部をつけた形状である。側面や背面に盤の痕を残している。
 頭頂は丸みを持ち角は持たない。たて髪は素毛で背に段差はない。耳は横長の内耳を横に向けている。盛り上がった眉の下に杏仁形の大きな目玉をやや上向きに浮き彫りしている。目の間には三角形の大きな鼻が鼻孔を前に向けている。頬の細工は見られない。口部は欠損している。喉の部分にやや膨らみを持つ。前肢は割竹状で前肢間の胸前は荒い彫りで、未完成を思わせる。前肢と後肢は浅彫りで連結している。腰から尻部にかけて肥大化し、どっしりした重量感がする反面、粗雑な彫りである。背稜は施さず、尾は大きな剣葉状の突起を持つ。
 石祠と同時期の頃に製作されたものであろう。
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16、平野 熊野権現社    多久市西多久町板屋平野

 紀伊の熊野三山の熊野権現を祭神とする神社で、『丹邸邑誌』には高麗出陣(文禄・慶長の役)の折、社殿山から昇棹を差し出したと記され、文禄元年(一五九二)には、すでに神社が存在していた。
 神殿に奉納されている肥前狛犬は小形ではあるが細部の表現は詳細で保存状態も良く、典型的な肥前狛犬として多久を代表する肥前狛犬の一つである。神殿に左に阿像、右に吽像が配置されている。
 阿吽像とも面相はメラネシア諸島の原住民が祭りのときに用いる面を連想させるユニークさを持ちつつも端正な造りである。
 阿像は頭頂に角の痕跡を留めるように小さな突起を持つ。たて髪は幅の広い梳き毛で二十二束が顎の横から頭部を廻っている。後頭部には梳き毛をまとめたような五つの突起が施されている。隆起した眉の下に杏仁形の太い隆起線が眼球を囲み、垂れ目状の太い眼球が特徴的である。頬には三本の沈線を横に刻み雛を表している。口は中央部がやや盛り上がった幅の広い直線で開口の状態を表現している。前肢間は到り抜き、腹と前肢・後肢間を三角形に刳り抜き空間をつくっているが、直立する前肢と後から伸びた後肢の指先は連結している。背は垂直に近い曲線で着地面に伸びる。尾は先端に丸みを持つ人形状で、回りを彫り窪めて浮き彫りしている。
 吽像は阿像より一回り小さいだけで、基本的な造りはほとんど同じである。阿像との違いは頭頂部に角となる突起を持たないのと、口を表す横一線で細く彫り、閉口しているどころ、尾の形状が剣葉状の回りを彫り窪めて浮き彫りしたところくらいである。
製作時期は、十六世紀末から十七世紀初頭と思われる。
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17、申川内 山王社    多久市北多久町多久原申川内

 山王信仰は、天台宗を開いた最澄が中国天台山国清寺の山王祠にならって比叡山の地主神・守護神として祀ったのが始まりといわれ、山王権現や日吉権現と呼ばれている、
 『丹邸邑誌』によると、神殿建設のため整地をしていたところ、狩俣の矢の根が発見され、源為朝が住んでいたと伝わっていたことから為朝の矢の根ではないかと草場佩川が記述したことが記されている。申川内の山王社は神殿が石祠で造られ、武人姿の神像が祀られている。石祠の形式は市内でも古式に属し、十七世紀初頭の造立と推測される。
 石祠の両側に奉納されている肥前狛犬は正面から見ると胴部が正方形で四肢などの加工を一切省いた単調な造りではあるが、顔部の細工は肥前狛犬のユニークを充分に補っている。両像とも口は開いたように見え、阿吽像の判断はできない。
 右の像は内耳が前を向いた両耳の間の頭頂部が窪み、その中央に小さな突起を持ち角の名残を留めている。
 左の像は突起を持たない。両像ともたて髪は素毛である。目は杏仁形で眼球の回りに沈線を廻らし、目と目の間から鼻根がやや開き気味に広がる。目の下から三本の沈線が放射状に伸び、髭か皺を表している。口はやや幅広の横線を彫り両像とも開いたように見える。顎から下の前肢部は平坦で直立し、脚は造り出し一ていない。側面から見ると苔が付いている部分が少し膨らみを持っている。背は丸みを持ち、後頭部から七本の沈線が放射状に刻まれている。尾は背の地着部に小さな団子状の突起を持つ。
 左の像がやや大きめで全体的な造りは右の像とほとんど同じであるが、足先を内側に引いていることから幾分前のめりになっていることや、背が直線的であることなどが異なる。
 この肥前狛犬の製作時期は、山王石祠が造立されたのと同時期の十七世紀初頭と考えている。
(館内展示写真より転載)
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18、両の原 宝林寺観音堂    多久市北多久町多久原両の原

 宝林寺が中小路から現在地に移転したのは明治十三年(一八八○)のことで、それ以前には天台宗の青龍寺が所在し、幕末に廃寺となっている。そのため境内前の道路際や境内にも青龍寺時代の石造物がいくつか残っている。観音堂は両の原区の所管で宝林寺から用地を借用した形で、新四国八十八ヵ所の七十八番と八十二番札所となっていた。大正十二年(一九二三)に設営された北多久新四国の七十七番の薬師如来像や江戸時代の疱瘡神石祠が祭祀されている。
 堂内の観世音菩薩像を祭祀した二つの石祠前にそれぞれ一体ずつ肥前狛犬が置かれている。この石祠と狛犬はもともとは別のもので、宝林寺とも無関係のものである。天台宗関係の寺院では境内に仏教以外の神を祭祀する例もあり肥前狛犬の製作時期などを考慮すると青龍寺との関連が考えられる。
 向かって右側の狛犬は丈が高く細身である。頭部に突起は持たず、たて髪は素毛である。やや大きめの耳は内耳が前を向く。目は細い沈線で縁をかたどり、目の下に一条の沈線を弧状に彫っている。口は歯が鋸歯状に刻まれ開き、阿像である。四肢は浅彫りで連結している。前肢は極端に長く前肢間は浅彫りである。背は丸みを持つ。尾は持たない。
 左側の吽像も丈は高いが、やや肉付きが良く丸みを持つ。頭頂部が尖り、角の名残であろう。たて髪はほとんど目立たない。目は細い沈線で縁取りしている。鼻もほとんど目立たない。口は横線を刻み閉じている。四肢は浅彫りで連結している。前肢間も浅彫りである。背は丸みを持ち稜は持たない。尾は丸い団子状である。
 十七世紀末から十八世紀初頭に製作されたものであろう。
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(左側の狛犬は写真のみ展示)

19、八龍神社    多久市北多久町小侍山犬原

東経130度06分22.74秒、北緯33度17分19.83秒に鎮座。

 明治二十七年(一八九四)に建てられた鳥居の額は「海童社」となっているが、『丹邸邑誌』が発行された弘化四年(一八四七)には八龍社と愛宕社、弁財天社の三社が合祀されていた。平成十七年に中心となる八龍社が改築され、それ以来天龍神社が正式な神社名となった。境内には十五世紀の板碑や十六世紀の地蔵菩薩像などがある。弁財天社にある倒壊した鳥居には享保十五年(一七三〇)の銘が刻まれている。
 狛犬は八龍神社の西に祭祀されている江戸時代後期に造立された稲荷社石祠に奉納されている。向かって右側に吽像を、左側に阿像を配置している。
 石材が軟らかい砂岩であるため損傷と風化が著しく、顔の部分が剥落するなど保存状態は極めて悪い環境にある。
 右の吽像は正面から見ると頭を右に傾け、物思いにふけている猿のように見える。右頬とたて髪の一部が剥落し、目や鼻の部分の傷みも進んでいる。頭頂に瘤は持たず、たて髪は素毛で、背の部分で段を持たせ区分している。口は曲線で表し閉じている。前肢と後肢は独立し、前肢の足先は両肢ともそれぞれ接地し、前肢間は浅彫りになっている。背は稜を持たず直線状に尾の方に伸びる。左後肢から背の方に向かって太い尾が大きな曲線を描いて登っている。
 左側の阿像もかなり損傷と風化が進んでいる。体形的には吽像とほぼ同じであるが、頭頂部に角の突起が残る。たて髪はほとんど剥落し、後頭部から肩部に僅かな段を造っている。顔の部分も風化が著しく僅かに口を開いた部分は残っている。尾はやや丸みを持つ、太い棒状の尾が臀部中央から横に伸びている。
 この狛犬は始めから稲荷社石祠に奉納されたものではないと考えている。まず稲荷社の守護神として一般的には狐像が奉納される。つぎに石祠の様式から江戸時代後期に造立されたもので、この時期すでに肥前狛犬は唐獅子形の狛犬にとって代わっている。八龍神社で肥前狛犬が製作された時期に存在していたのは、享保十五年の銘を持つ鳥居が建てられた弁財天社で、享保十五年には弁財天社が存在し、弁財天石祠に奉納された可能性が強く十八世紀前半の製作と考えている。
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肥前狛犬20〜29へ続く