多久市郷土資料館

20、山神社    多久市北多久町小侍高木川内

東経130度5分27.19秒、北緯33度17分16.24秒に鎮座。

 厳木ダム建設に伴い、昭和五十四年(一九七九)、水没地となる厳木町西宇土から住民が集団移転する際、西宇土の氏神社であった山神社も移設された。神社の創建時期はわからないが、神殿の部材に元禄二年(一六八九)の墨書があり、元禄二年には山神社が創建されていたことがわかる。
 山神社の神殿には二対の肥前狛犬が奉納されている、二対とも小形であるが、細部にわたって巧みな細工を施し、しかも丁寧な調整を行い、保存状態は非常に良好で、佐賀県を代表する肥前狛犬である。
 こちらの一対の肥前狛犬は前肢と後肢が底板で連結されている。側面から見ると円を四分の一にした形に近いが、背中の丸みを除くと直線での表現が多く、正面形は縦長の長方形である。
 阿像は頭頂に一角を持ち、たて髪は素毛で短い。扁平形な顔で、眉は盛り上がり、眼球の回りを深く彫り、切れ長の大きな目を強調している。眉の間に円形の瘤を持つ。その下から伸びた鼻は高くはないが幅広の鼻かぶらを持ち、鼻孔は横長に彫られている。口は幅の広い横線を刻み開口を表している。四肢は独立しているが底板で前肢と後肢を連結させている。前肢間はやや深く彫り、前肢と後肢の間の彫りも深い。前肢の上部に節を造り出し、足先にも段をつけ指先を造り出している。背中には鎬をつけて背骨を表している。尾は先端を左に振った棒状であまり目立たない。
 吽像は阿像より一回り小形で、顔の表現はほぼ同じであるが、頭部に突起は持たず、口は上下の歯を噛み合わせて閉じている。前肢の手法は同じであるが、節は持たない。背中は鎬状で、阿像に比べて胴長で丈が低い。尾は小さな不定形の突起である。十六世紀末に製作されたものであろう。
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(阿吽の位置が普通と反対です)
 この肥前狛犬は、犬が「お座り」とした像容である。阿像は頭頂が僅かに尖った突起を持つ。たて髪は素毛である。切れ長の大きな眼球の上下を彫り窪め目を強調している。目の問から伸びた鼻も大きな鼻かぶらを持ち、鼻孔は外側が尖った半楕円形である。口は大きく開き、長い舌を出し、まさに犬を思わせる、四肢は独立し、前肢は短いが太く、やや外に開き安定感を持つ。背丈が高いため、背は頭頂部から直線的に伸び、尾の大きな突起に接する。
 吽像は阿像より一回り小さいだけで、基本的には阿像とほぼ同じである。相違点は顔を正面から見ると円形状で、頭頂に角を表す突起が目立つ。口は太い横線で閉口を表している。背丈が低い分、胴長に見える。尾は表現されていない。
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21、鶴熊野権現社    多久市北多久町小侍高木川内

東経130度5分38.04秒、北緯33度16分56.95秒に鎮座。

 神社の創建時期はわからないが、多久三代領主多久茂矩と四代領主多久茂文の名前が刻まれた鳥居は、延宝六年(一六七八)の造立であり、神社の創建はその頃か、それ以前であろう。
 神殿後方の煉瓦をつんだ祭壇には江戸時代初期の五輪塔の空輪・風輪と、花崗岩の瓢箪形の自然石が祀られ、その両側に一対の肥前狛犬が奉納されている。五輪塔の部分は近隣に造立されていた墓塔か供養塔が持ち込まれたものと推測される。また花崗岩の瓢箪形の石は、道祖神として祭祀されたものと思われ、近世末に祭祀されたか、持ち込まれたもので、肥前狛犬と直接結び付けられるものではない。
 ここの肥前狛犬は素材が納所松瀬地区に産出された安山岩の赤味を帯びた「赤石」で、江戸時代には佐賀城の水路や堀の護岸石として用いられたり、一時期、多久では石造物にも用いられていた。軟らかくて加工しやすい反面、もろく風化しやすい性質の石でもある。そのため、この肥前狛犬もかなり傷んでいる。向かって右側の狛犬は全体的に傷み、特に口から顎の部分は欠損している。首から上部が折れ、前肢の一部も欠損している。
 右の像の正面形は前肢の足先が開いた縦長の台形状で、側面形は三角形に首が突き出た胴長で豹を思わせる状態であり、直線的な表現が多い。風化のためか、荒い造りなのか細部の表情がわかりにくい。頭頂部には突起はなく、内耳が前を向いた耳、垂れ目がちの目が目立つ程度で、鼻や口は欠損して阿吽像の判断はできない。たて髪も不明である。首から先が突き出て、前肢も足先を前に出している。前肢間は幅広い浅彫りで連結している。前肢と後肢も浅彫りで連結している。後肢の太腿は筋肉を表したのかたくましい。尾は棒状で太く背に達するほど長い。
 左の像は折れた首から上部は逆三角形の顔に尖った耳を立て、口先も尖り、狐か犬を思わせる。側面形や大きな尾など右の像と共通する点が多いことから一対であることがわかる。
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22、前山英彦神社    多久市北多久町小侍高木川内

東経130度5分6.75秒、北緯33度17分5.64秒に鎮座。

 前山英彦神社は、『丹邸邑誌』に「高木河内村堤頭深林二在リ、北面、宝殿八尺方板葺、磐窟中二在り、(中略)神門二基、(後略)」と記されている。創建時期はわからないが、神門(鳥居)二基のうちの一基が残り、その鳥居が砂岩で造られている肥前鳥居であることや、境内にある伊勢講碑の造立が江戸時代前期であることから、江戸時代前期には神社が存在していたようである。上宮は明治四十年(一九〇七)五月に火災に遭っている。
 この上宮の石祠に奉納されている肥前狛犬は、この火災のために阿吽像とも損傷し、阿像は頭部と胸部、胴部の三つに割れて、吽像も背から頚部にかけて二つに割れている。向かって右に阿像、左に吽像を配置し、阿像が一回り小さい。
 阿像は頭頂が小さく尖り、一角の名残を留めている。耳は内耳を前に向け、たて髪は素毛であるが毛髪の表現はない。眉は目の上に連弧状の沈線を二本彫っている。目は杏仁形の浮き彫りである。頬に二本の沈線で皺を表している。目の上に彫られた二本の弧線の下の沈線を延長して鼻の輪郭とし、眉と鼻がつながっている。口は幅広の横線を彫り開口している。前肢と後肢は浅彫りで連結している。前肢は足先をやや後に引き、前のめりの体勢である。前肢間は脚の太さより狭い。脚の中央部が幅広となり節を造り出し、足先には段をつけて前に出し指を表現している。背稜は鎬をたてている。尾は幅が広い剣葉状である。
 市内の肥前狛犬は阿像が吽像よりも大きいのが一般的であるがここでは吽像が阿像よりも一回り大きい。吽像も頭頂が尖り角の名残であろう。その後の後頭部に瘤状の突起を持ち、その下の背にも同様の突起を一個造っている。小さな耳は内耳が前を向いている。たて髪は素毛で頭部にくびれを造って背と区分している。眉は面の端から端まで二本の曲線を彫って表している。杏仁形の目の回りを彫り窪め、眼球を浮き彫りしている。三角形の大きな鼻かぶらを持つ鼻は阿像の鼻より高く、鼻孔は浅く穿孔している。口は細い横線で閉口を表している。前肢と後肢は浅彫りで連結している。前肢間は狭いが、やや深めに彫っている。二本の脚はほぼ中央部でやや膨らみを持ち節を造っている。足先には指を造り出している。背は上部の瘤状の突起から鎬をたてている。尾は突起状になっている。
 この神社に遺された石造物は江戸時代前期と、明治以降の二つのグループからなり、この狛犬が製作されたのは古いグループに属する十七世紀前半と見ている。
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23、妙見神社    多久市東多久町別府羽佐間

東経130度9分4.26秒、北緯33度16分6.36秒に鎮座。

 天正元年(一五七三)、羽佐間を所領した田中泰慶が創建した。祭神は北斗七星である。創建当時は現在地より南の山腹にあったが、明治四十年(一九〇七)、現在地に移された。
 神殿前に盗難防止のため自然石にセメントで接着された狛犬は、阿像が左、吽像が右に配置されている。体形は阿吽像とも丸みを持ち、胸部が鳩胸状に発達している。細部の彫刻も丁寧で、多久を代表する肥前狛犬の秀作である。
 阿像は向かって左側の顔の五分の一が石材の目に沿って剥げ落ち、その後、切離面には部分的に調整を加えている、頭頂に団子のような一角を持ち、たて髪は梳き毛で肩口の先端は剣葉に尖り、段差をつけている。耳は内耳を横に向けている。眉は盛り上がり、つり上がっている。目もつり上がり、恐ろしい形相に見える。目と目の間から短い鼻筋の団子鼻を彫り出している。鼻の両側の頬はやや盛り上がっている。口は上歯と下面の問が開き、両端に牙を持ち、顔全体は憤怒相である。尾は大きな突起を貼付たように誇張されている。背中は、たて髪の下から尾まで縦に、幅広い帯状の膨らみを四分割し背骨を表している。四肢は独立している。前肢はやや足先を引いているので前のめりではあるが、全体的なバランスは保っている。脚の中ほどに段を造り節を表し、足先にも段をつけ指の部分を造り、付け根後方に五本の線で脛毛を刻でいる。後肢の上方臀部には細長い屈折した線を彫っている。
 吽像はたて髪は素毛で毛髪はなく、後頭部に段差をつけている。阿像と異なり大きな耳を外に向けて広げ耳穴も穿っている。盛り上がった眉骨の下に飛び出した大きな目はやや上向きで、鼻は目の下から低く伸びる。口は正面では横一線であるが、側面では二本の曲線で閉じた状態を強調している。背は丸みをおび、二本の沈線で幅広い帯状の背骨を造っている。尾は持たない。四肢は独立し、前肢一は二つのくびれを持ち節と足先を表している。前肢の巻き毛、後肢の脛毛も阿像と同じように造り出している。
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24、太神宮    多久市南多久町花祭谷下

東経130度8分42.91秒、北緯33度15分23.87秒に鎮座。

籠り堂裏石祠
 集落中央にある籠り堂の奥には、右から延享二年(一七四五)造立の天照皇太神宮の割石塔、寛文六年(一六六六)の九郎大権現石祠、塔身を龕状に創り抜き観音開きの扉石双方に穿孔した石祠が祭祀され、籠り堂は新四国八十八ヵ所の二十二番札所となっている。
 左端の石祠に一対の肥前狛犬が奉納されている。向かって右側に阿像、左側に吽像が向き合って置かれている。阿吽像とも損傷が著しく、阿像は胸部から後頭部の線で割れている。吽像は前肢の中ほどから背にかけて割れ、左半身の一部と顔部は剥落している。
 阿像は頭頂部中央の鎬状のたて髪の先端に小さい突起の角を造っている。たて髪は鎬状たて髪の両側に三束を短くまとめ、七本から成り、その外側に内耳が前を向いた耳がある。両耳から背の中央部にV字状に段を付け毛髪と背を区切っている、前頭部は角の左右に浮き彫りの線を帯状に造り、たて髪の生え際を表している。眉骨の下に丸い眼球を浮き彫りし、目の回りは彫り窪めている。眉骨から伸びた大きな鼻かぶらの鼻の鼻孔は丸く穿っている。両頬には鼻から斜め上に四本の沈線を刻み、沈線間が浮き彫りされ、髭または皺を表している。口は二本の横線を彫って開いた口から舌を見せている。前肢間および前肢と後肢は浅彫りで連結しているが、前肢の足先にくびれを施し指を刻み、指は台石に載っている。背は側面形は丸みをおび、後頭部中央の鎬状のたて髪から伸びた縦の浮き彫りの背骨が尾とつながる。
 吽像は基本的には阿像と共通する像容であるが部分的に違いが見られる。後頭部のたて髪が二段になり、束ねた束数も十五束となっている。また前肢の足先は地着部まで伸び、台石に載った状態ではない。
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25、横峰山弁財天石祠    多久市多久町撰分

 横峰山中腹にある石祠は、江戸時代前期の様式で、祠内に祀られている神像は右手に剣を持つ水天の坐像である。石祠の前に一対の肥前狛犬が奉納されている。向かって左側に阿像、右側に吽像が配置されている。
 阿吽像とも外見はほぼ同じ形で、正面形は縦長の台形状で、側面形は円を四分割した形をしている。顔は四角形で頭頂に角を思わせる突起を持ち、角の両側後方に内耳が前を向いた耳、頭部には二十一束の梳き毛のたて髪が直線で肩口まで伸び、背の部分に僅かな段差をつけている。背は丸みをおびて尾に達する、前肢は割竹形で直立し、肢の中央部がやや膨らみ節を表している。前肢間および後肢との間は薄彫りして連結する。背稜はない。
 阿吽像で異なるのは顔部と尾の部分に見られる。阿像は眉の下から目の回りを彫り窪め、杏仁形の目を浮き彫りしている。眉の間から伸びた鼻は大きく鼻かぶらを持ち、口から顎に直角に伸びる。鼻孔は四角に穿つ。口は幅広い横線で表現している。尾は僅かに膨らんだ棒状である。
 吽像は隆起した眉の下から目の回りを彫り窪め丸い眼球を浮き彫りしている。鼻かぶらは小さく、口から顎へ前肢の方に斜め向いている。鼻孔は四角に穿つ。口は細い横線を彫っている。尾は三本の剣葉状である。十七世紀中頃に製作されたものであろう。
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26、七郎神社    西多久町板屋

東経130度3分44.4秒、北緯33度15分38.18秒に鎮座。

 『丹邸邑誌』に「七郎宮ト申ハ、三韓西征ノ後、平戸志日岐へ勧請有之候、雅武王命ト申神也」、「永禄四年十二月女山村二勧請有之候」とあり、祭神は仲哀天皇の后、神功皇后が新羅出兵の折、武将として渡海した仲哀天皇の弟・稚武王が凱旋後、平戸に居住し、没したので志日岐神として祀られ、永禄四年(一五六一)に板屋村の名頭が平戸から神霊を勧請して建立された。
 盗難防止のため神殿に納められている肥前狛犬は、全体的に丸みをおび肉付きが豊かである。
 阿像は鼻の一部と右後肢の一部が損傷している。頭頂に丸い突起状の角を持ち、たて髪は素毛で扁形に僅かに段差をつけている。耳はほとんど表現されていない。面の中央に切れ長の大きな目を据え、目の回りを深めに彫り、目を浮き立たせている。目の下の頬には三本の沈線が刻まれている。目の間から三角形の低い鼻が広がっている。口は半ば開き上下に歯並びが見える。盛り上がった胸部の中央下部に二条の沈線が上向きに弧を描き、その上部の両側に三本の沈線が横向きに彫られている。背に僅かに鎬が確認でき、背の先端にやや盛り上がった突起が尾を表現している。尾や臀部は地につかず中腰の状態になり、四肢は独立し、前肢は太く短く安定感を持っている。
 吽像も右後肢の一部が損傷している。側面から見ると胸を突出し、前肢を胴部に引いた前のめりの体勢ではあるが、後肢はどっしりと地につけ不安定さを感じさせない。面部をやや右に傾け、頭部に角はなく、たて髪は素毛で、肩部に僅かな段差を持つ。耳は表現せず、目は阿像と同じ切れ長で大きい。口は横線を刻んで閉じているが、側面の口角部分は深く彫り込んでいる。左側の口角部分から首筋部分には、溶岩から岩石になる段階で生じた気泡が残っている。胸の中央に二本の沈線を横に弧状に刻んでいる。背は緩やかな曲線で尾に伸び、端に大きく造り出している。背稜や鎬は造り出していない。臀部を先端に大きく造り出している。尾は先端に突起を持つ三枝状である。
 阿吽像とも面部の彫刻は必要最小限に留めながらも存在感を感じさせる狛犬である。
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27、飯盛権現社    多久市北多久町多久原相の浦

 飯盛神社は相神浦権現ともいい、治承三年(一一七九)、肥前下松浦軍相神浦(元佐世保市相浦)の城主、相神浦監物が多久に移り住んだ時、相神浦の飯盛神社を勧請して創建したと伝わる古い歴史を持つ神社で、相の浦区と大工田区の氏神社である。
 神殿に奉納されている狛犬は、頭をもたげ、前肢を立て、腰を下ろす、犬が「お座り」をした姿の均整のとれた像で、保存状態も良く、市内の肥前狛犬の中でも優れた狛犬の一つである。
 阿像は頭部に一角を持ち、一角から眉間にかけて小さな球状の突起が縦に三つ並ぶ。吽像は頭頂から眉間まで沈線を入れ、頭を二分している。たて髪は素毛で肩口まで垂れている。
 内耳を外側に見せるように小さく立てている。目はともに杏仁形で目尻線は耳まで伸びている。鼻かぶらの太い鼻を持つ。阿像は正面を見据えているが、吽像は顔面が上を向いている。口は、阿像が歯牙列をなし、わずかに開いた状態で、吽像は口もとから面の中ほどまで下がった枕線で表し、とも朱を施している。阿像の胸部に楕円形の突起が施されている。
 四肢は独立しているが、前肢と後肢の間は浅彫りで連結している。足先に五本の沈線を縦に刻み指を表している。前肢の付け根後方に球状の突起を縦に三つ並べ巻き毛としている。後肢の上方臀部に五条の弧線、足先に二本の縦線を刻み指としている。背面の中心に二本の沈線を縦に刻み背骨としている。尾は花弁状の渦巻を浮き彫りしている。
 全体的に細部までむらなく調整し、丁寧な仕上げである。顔面や四肢の細工及び背面の造作など、厳木町広瀬の天山神社に奉納されている狛犬に類似点が認められ、十六世紀末から十七世紀初頭の頃に製作されたものであろう。
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28、厳島神社    多久市北多久町多久原松ヶ浦

神殿となる石祠には右手に剣を持つ水神像が祀られ、向かって右側の扉石に

謹奉造立弁才天御宝殿一宇
右志趣者大願主日口口延命□孫
繁昌當村安穏如意満□故如件
當所師匠宝蔵寺口施主金丸新兵衛尉
□□代 進退所也 大工平河治右衛門

左側の扉石に
永禄十二巳年十一月吉日

の紀年銘が刻まれ、この弁財天石祠が永禄十二年(一五六九)に造立されていることがわかる。県内での弁財天石祠としては最古級で市の重要文化財の指定を受けている。また大工平河治右衛門とは牛津の砥川石工の名人といわれる平河与四右衛門の先祖と見られ、砥川石工の起源にも関わる貴重な石祠でもある。
 神殿に奉納されている肥前狛犬は前肢を立てて座った姿であるが、一腰高で直線的であるため台形状の体部にやや大きめな頭部が載った側面長方形を呈している。吽像の前肢の両足先が欠けている以外は保存状態が良好な狛犬である。
 阿吽像とも頭頂部はやや尖ってはいるが角とは言い難い。たて髪は素毛で肩口までで止まっている。阿像の額部は円形に盛り上がり、左右に隆起した眉骨と鼻筋の通った鼻が下方に伸びやや大きな鼻かぶらとなっている。目は杏仁状で大きく、眼球の回りの彫り込みは深く目尻線に繋がり耳まで達している。阿像の口は歯牙状をなして開いている。吽像は眉から下部は扁平で鼻だけが盛り上がり、口は横線刻で閉じている。阿吽像とも四肢は浅彫りで前肢と後肢を連結させている。前肢間はやや深めに彫って太い脚を強調している反面、前肢と後肢の間は彫りが浅く後肢の輪郭さえわかりにくい、背稜・尾部とも表現されていない。
 この肥前狛犬の製作時期については、厳島神社を含めて周辺には古い神社や石祠など信仰の対象となるものは存在せず、この狛犬は弁財天石祠造立の永禄十二年と時を置かずに製作されたものと推定され、肥前狛犬の出現期のものであろう。
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29、中尾神社    多久市北多久町多久原2750

東経130度07分04.07秒、北緯33度17分16.00秒に鎮座。

 多久原から小侍に至る唐津往還は別名太閤道路と呼ばれ、豊臣秀吉が朝鮮出兵の折、名護屋城に向かう時に通った道といわれている。二代領主多久茂辰の頃、この街道は木立野原で欝蒼として人や牛馬の通行も困難であった、茂辰はこの一帯を切り開いて多久原宿を移転し、さらに正保三年(一六四六)宿の安定を願い、京都祇園神を勧請して祇園社=中尾神社を創建した。御神体は石祠である。
 神殿の石祠に奉納されている一対の肥前狛犬は砂岩製で、右に阿像、左に吽像を配置している。両像とも正面形は長方形に半円形の頭部を載せた状態で、側面から見ると前肢をやや前方に出し、背丈が低い胴長の狛犬である。
 阿像は頭頂に角の名残と思われる瘤状の突起を持ち、耳の回りに二条の沈線を施している。たて髪は素毛で、肩口に段を施しているが、たて髪は極端に短い。額は平坦で二条の沈線を弧状に刻んでいる。杏仁状の眼球はやや上向きで、目の下に二条の沈線を刻み髭か搬を表現している。上向きの鼻の先端は折れている。鼻孔は丸形に穿っている。口は幅の広い横線の中央を深く彫って開口の状態としている。一前肢の足先はやや前方に出し、肩口から足先までは平行している。前肢と後肢は独立しているが、前肢は浅彫りで左右連結している。後肢は地着した部分であろうが、明確な造形は行っていない。背は丸みをおび、背稜はない。尾は棒状で右後肢に曲がり、背の幅より大きい尻部が地着している。
 吽像は基本的に阿像と同じであるが、前肢の足先がやや外に広がり、背の幅が細く、腰部のくびれが背面の上部に位置し、尾は先端が丸みをおびた棒状で上を向く。
 この狛犬の製作時期は、御神体となる石祠が狛犬と同じ砂岩で造られ、神社が創建された当時は石祠が神殿であったと思われることなどから、石祠が創建された正保三年頃に奉納されたと推測される。
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管理人の一言:
 肥前狛犬は佐賀が誇る砥川の石工集団により、16世紀末から18世紀前半の約160年間に限り製作された、素朴、大胆なデフォルメ化、ユーモラスな顔つきや手抜きをしたかのように見えるユニークな身体などが特徴的な、比較的小さな狛犬です。
 余り個体数を見ていなかった頃は、単一化された単純な狛犬のように思っていましたが、今回これだけ沢山の肥前狛犬を一度に見せて戴いて、其の見識が大きな誤りである事を認識させられました。素朴さ、ほのぼのとした暖かさなどと共に、こんなにも個性的な姿をしているとは…、思いもかけない新発見です。この素晴らしい企画を考え、実行された「多久市郷土資料館」館長さんを初め、学芸員さんなど関係された方全員に感謝、感謝!!