子檀嶺(こまゆみね)神社

上田市武石小沢根230 (平成28年8月12日)

東経138度14分09.94秒、北緯36度16分32.62秒に鎮座。

この神社は、上田市の南15km程の辺り、小県郡長和町に近い武石小沢根の山中に鎮座しております。

御祭神 倉稲魂命・建御名方命・前八坂刀売命

由緒
上田市武石の郷の総鎮守と崇敬される当社は、社伝によると和銅5年(712)に山城国紀伊郡稲荷神社(現在の伏見稲荷大社)より倉稲魂の御分霊を仰ぎ、奥宮を子檀嶺岳山頂(美しの国の奥)に、当社里宮を武石の郷沖五日町に遷し祀られた。大同元年(806)3月15日信濃国上諏訪神社(現在の諏訪大社上社)より建御名方命、前八坂刀売命の御分霊を宝珠児玉石三個と薙鎌・斧を添え本殿の左右に遷し祀られた。
延喜式神名帳にも記載が見られる古社で、歴代領主・豪族の崇敬篤く、元暦元年(1184)には武石三郎胤盛氏により改修の寄進を受け、天正4年(1576)は依田川の大洪水により社殿が流出し、地頭大井信廣氏により社殿と祭典料として28貫文の地の寄進を受け、現在の小沢根の地へ移し祀られた。
慶長12年(1607)には真田氏より社領を与せられ、其の崇敬は仙石氏、松平氏に至るまで続く。大正8年(1919)に火災に罹り社殿が焼失するが、翌9年には氏子・崇敬者各位の厚意により再建された。
7年に一度、申年・寅年の4月に斎行される武年御柱大祭は、寛治元年(1087)、前宮の大宮諏訪社(下武石)の創建以来、今日まで行われている。この大祭は、諏訪大明神を御神輿に奉還し、御船・太刀・矛・薙鎌・斧等を調へ氏子区域を巡る御神幸行事、木遣りと共に御柱を清浄な境内に立てる里曳き行事、更ひは百万石の大名行列を模した豪華絢爛な、お練り行事があり、全氏子を挙げて盛大に行なわれる。
境内由緒書き より。

御祭神 宇賀御魂神・建御名方刀美命・八坂刀賣命

由緒
式石郷八ヶ村の産土神として信奉されている子檀嶺神社は、奥宮である子檀嶺獄山頂の子檀倉社、中宮である余里の駒形神社、里宮である当社からなっている。御祭神は、奥宮は宇賀御魂神・高れい神、中宮は建御名方刀美命、里宮は宇賀御魂神、建御名方刀美命、八坂刀賣命の三柱である。 和銅5年(712)に山城国紀伊郡稲荷神社より宇賀御魂神を子檀嶺獄山頂に鎮座しこれを奥宮と称し、里宮は旧下武石村五日町に御遷座お祀りしていた。大同元年(806)3月15日当国一ノ宮上諏訪神社より建御名方刀美命、八坂刀賣命を宝珠児玉石三個に添いて分社し二柱の命を左右の殿に遷祀した。古くはこの三柱を合わせて子檀嶺神社獄石宮大神として祀っていた。貞観2年(860)2月神位従五位下を授けられ、延長2年(924)御勅改、延長5年(927)延喜式に選ばれ名神小社に列した。寛冶元年(1807)源義光公本殿再建され元暦元年(1184)当郷の豪族武石三郎平胤盛本殿吠殿を修理された。 天正4年(1576)依田川の大洪水により社地・社殿が流失し、当時の地頭大井大和守信廣現在地へ遷座し祭典料として28貫文の地を寄付された。慶長12年(1607)9月28日領主真田候社領として18石余寄付され、以降領主が変わる毎に社領は寄付された。延享3年(1746)烈風のため大破損を被り、翌4年領主松平伊賀守忠愛候巨木を寄進された。
長野県神社庁公式サイト より。

青木村にも子檀嶺神社があり、読みは「こまゆみのねの」。こちらも式内社と称しております。

参道入口と一の鳥居

参道

二の鳥居

境内入口

拝殿

神額

拝殿内部


神楽殿

末社