英彦山神宮

田川郡添田町英彦山1(平成22年4月3日)

東経130度54分16.68秒、北緯33度28分56.34秒に鎮座。

 この神社はJR日田彦山線の彦山駅から500号線を東へ4Km程行くと、英彦山北西中腹に鎮座しています。

 御祭神:主神:天忍穂耳命、配神:伊邪那岐命、伊邪那美命
 祭礼日:月1日・元旦 松柱神事、2月末〜3月1日・御汐井採、3月15日・祈年御田祭、4月初旬・産業安全祈願春季大祭、4月第二土・日曜日・御神幸祭り、7月初旬・産業安全祈願夏季大祭、7月11日・除蝗風鎮祭り、8月14日・祖霊祭、9月28日・例祭、9月28日・権現講社大祭、11月1日・産業安全祈願感謝大祭、11月23日・新嘗新穀感謝大祭、12月31日・除夜の鐘
 境内社:産霊神社、中津宮、下津宮、玉屋神社、大南神社、招魂社、他10末社
 由緒:英彦山は、古来から神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神の御子、天忍穂耳命であることから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました。
 嵯峨天皇の弘仁10年(819年)詔によって「日子」の2文字を「彦」に改められ、次いで、霊元法皇。享保14年(1724年)には、院宣により「英」の1字を賜り「英彦山」と改称され現在に至ってます。
(「英彦山神宮公式サイト」より)

 旧社格は官幣中社。通称彦山権現。日本有数の修験道の霊場として栄えた。
 英彦山は、北岳・中岳・南岳の三峰からなり、中央にある中岳の山頂に当社の本社である「上宮」があり、英彦山全域に摂末社が点在する。
 英彦山は古代より神体山として信仰されていたとみられる。当社の開基については次のような伝承がある。継体天皇25年(531年)、北魏の僧・善正が英彦山山中で修行中に猟師・藤原恒雄に会い、殺生の罪を説いた。しかしそれでも恒雄は猟を続け、1頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現して白鹿に檜の葉に浸した水を与えると、白鹿は生き返った。それを見た恒雄は、この白鹿は神の化身なのだと悟り、善正の弟子となって当社を建立したという。
 また別の伝承では祭神忍骨命の降臨した地とされて山上に一祠が建てられたのが起源とも云う。清和天皇代の貞観7年(865年)に従四位上を授けられたとあり、延喜式神名帳にも忍骨命神社として名を残す。
 いずれも伝承で実際の歴史は、11世紀初頭に増慶によって中興されるまでについては不詳である。しかし早くから神仏習合し彦山「権現」の名を用いていた。
 「英彦山」という山名は、社伝では天照大神の御子(日の御子)である天忍穂耳尊を祀ることから「日子山」と呼ばれるようになったとしている。弘仁10年(819年)、僧・法蓮が、山中で飛来した鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ」と記されているのを見て当山を再興し、「日子山」を「彦山」に改めたとされる。
 12世紀より天台宗に属し、西国修験道の一大拠点として栄えた。元弘3年(1333年)、後伏見天皇の第八皇子・長助法親王(後の助有法親王)を座主に迎えて以降、座主はそれまでの輪番制から世襲制となった。現在の社家・高千穂家はその末裔である。
 当時僧坊3000余、49窟を有するといわれたが天正年間(1573年〜92年)秋月氏・大友両氏の兵火が及んで焼失、近世初期に小倉藩主細川忠興が社殿を再興した。
 焼き打ちや寺領廃止もあり打撃を受け、江戸時代以降は衰微した。元禄9年(1696年)に天台修験の別格本山となった。享保14年(1729年)、霊元法皇より、天下に抜きん出た霊山であるとして「英」の字が授けられ、「英彦山」と称するようになった。
 明治の神仏分離により修験道が廃止され、天台山伏の本山であった霊山寺を分離し神社となって「英彦山神社」に改称した。1883年に座主の高千穂宣麿が男爵を授けられ、華族に列した。1898年(明治30年)に官幣中社に列した。1975年、現在の「英彦山神宮」に改称した。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 JR日田彦山線の彦山駅から神社に向かい、500号線に入り線路を過ぎて200m程進むと、一の鳥居が立っています。

銅の鳥居から境内入口まで

英彦山神宮奉幣殿・下宮

境外摂社:高住神社

境外摂社:玉屋神社