銅の鳥居から境内入口まで

 参道入口に立つ銅鳥居は500号線沿いに有ります。ここからなだらかな石段の参道を500m程登ると奉幣殿が建立されている境内になります。
 銅鳥居は寛永14年(1637年)佐賀藩主鍋島勝茂の寄進で、国指定重要文化財となっています。この付近には道案内の守護神・点合護法や、明治11年生まれの狛犬、江戸時代まで天台修験の別格本山だった霊山寺(現霊泉寺)等が見られます。
 鳥居近くの石畳の参道左右には、往時を偲ばせるように沢山の坊跡が残され、昔日の賑やかさとは裏腹に静かな参道歩きとなります。英彦山の、神奈備山に相応しい山容が見えてくる頃、参道には桜の花が咲き乱れ、周囲の緑の中に淡いピンク色が際だって、一際幽玄な雰囲気が漂っていました。
 参道の途中に車道が横切っていますが、その後も落ち着いた石畳がまだまだ続き、石段の幅が狭くなり駐車場からの道と合流すると、そこが旅館商店街です。殆どの参拝者はここが参道歩きの出発点の様です。
 商店が切れると石製の二の鳥居や社号標、狛犬、宝篋印塔、神橋などがあり、石段の参道はだんだん急になってきます。石段に手すりが付いてくる頃、参道左には勤皇義僧の墓所で、田川護国神社の奥宮として招魂社が祀られています。ここから境内まではもう少し、右手に御神木の夫婦杉が見えてきたら、そこが境内入口です。

500号線沿いに立つ銅鳥居から、長い長〜い参道歩きが始まります。
道案内の守護神:点合護法
国指定重要文化財・銅鳥居
高さ・約7m、柱の周囲・3m
寛永14年(1637年)佐賀藩主鍋島勝茂の寄進。
「英彦山」の額は霊元天皇の筆による物という。
社号標
「官弊中社
英彦山神社」
銅鳥居脇にいる明治11年生まれの狛犬
ギョロッと大きな目で長い耳を垂らしています。鬣や尾等の線が深くはっきりと彫られていますが、全体に固い感じがします。威厳や力強さは感じられます。
狛犬の拡大写真はこちらで
(明治11年(1878)5月朔日建立)
江戸時代まで天台修験の別格本山でしたが、明治の神仏分離により修験道が廃止され、英彦山神社と天台山伏の本山であった霊山寺は分離され、わずかに、佐賀の鍋島勝茂藩主が寄進した「銅鳥居」(重文)、旧霊仙寺大講堂の「奉弊殿」(重文)、雪舟作の「亀石坊庭園」(名勝)などが残され、往時を偲ばせています。昭和30年に「霊泉寺」と改称しました。
  
霊泉寺堂内の様子 仏塔
石畳の趣有る参道の左右には、往時を偲ばせるように、沢山の坊跡が残されています。
県指定民俗文化財・財蔵坊 緩い石段の両側には桜が綺麗に咲いています。
その桜の花の後方に見えるのが英彦山。神奈備山に相応しい山容です。
未だ石畳は続きます。 参道の途中を車道が横切っています。
車道の後は、落ち着いた石畳がまだまだ続いています。
石段の幅が狭くなりました。 駐車場からの道と合流すると、
そこは旅館商店街です。
商店街からの石段参道の様子
二の鳥居前にいる昭和3年生まれの狛犬
身体中苔むして、頭に草を生やした、貫禄充分な狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(昭和3年(1928)3月吉日建立)
石製の三の鳥居 社号標
境内社:中島神社
宝篋印塔
社号標、神橋と石段参道
この辺りでは、石段脇左右に亀石坊庭園等、旧坊の庭園が見られます。
石段に手すりが付き、登りが急になってきます。
石段左に祀られる境内社:招魂社
勤皇義僧の墓所で、田川護国神社の奥宮として、11柱がお祀されています。
「維新殉国志士之墓地」碑 社号標「田川護国神社奥宮」
境内の様子 石祠
11柱の勤皇義僧の墓所
急な石段は未だ続きますが、上方が明るくなってきました。
境内近くに聳える御神木・夫婦杉
境内入口

英彦山神宮奉幣殿・下宮へ