弘前市十面沢 (平成21年7月21日)
東経140度20分14.80秒、北緯40度43分39.05秒に鎮座。
この神社は、岩木山の北北東10km程の辺り、岩木山麓の森の中に鎮座し、鬱蒼とした杉の巨木に囲まれ静かな佇まいを見せております。
御祭神 大山祇神
例祭日 八月十七日
由緒
延暦十五年 (七九六) 岩木山頂の奥宮に対して下居宮として鎮座したのが始まりと言われている。本尊観世音菩薩は大同二年
(八〇七) 坂上田村麻呂が勧請したとも伝えられている。当社より山頂に参詣する者怪異の難に合う者が多く、近江国の花輪其が勅宣を奉じて越前敦賀より来て、山中に篭居して山神に祈願したところ神託があり、百の沢を越えた所に社殿を建立せよとの事、そうしたところ災難が無かったと言われている。寛治五年(一〇九一) 現在の岩木山神社と言う。当社は文安五年 (一四四六) 山火事にて焼失、寛正四年 (一四六三) 長見孫太夫によって再建された。慶長二年 (一五九七) 津軽為信が巌鬼山観音院を修復したが、再び元禄元年 (一六八八) 焼失同四年四代藩主信政が建立、明治以前まで御本尊十一面観音を奉り巌鬼山西方寺観音院十腰内観音堂と言われていた。
青森県神社庁公式サイトより。
巌鬼山神社の由緒は古く、延暦一五年(796)、岩木山北麓に巌鬼山西方寺観音院が建立されたことに始まり、坂上田村麿の蝦夷平定祈願のため再建されたと伝えられる。
また、文安五年(1448)に社殿が野火によって焼失したため長見氏によって再建、その後、藩祖津軽為信が修復したほか、慶長九年(1604)にはその子信建が「津軽総領主宮内大輔藤原臣」銘の鰐口(県重宝)を奉納している。
やがて百澤寺に併合されたが、神社は元禄四年(1691)に氏子によって再興され、明治六年(1873)巌鬼山神社と改称した。
本殿や厨子は、近世津軽地方の小仏堂が神社に変わった典型的なもので、細部の様式などもよく時代の特徴を残している。
また、大杉は樹齢千年以上、高さ四一メートルを越える巨大なもので、県内にはこれに勝るものがなく、神社の歴史を語るとともに、津軽三十三観音の巡拝者をはじめ多くの人々の信仰を集めている。
弘前市教育委員会。 全文はこちら。
古くは、十腰内観音堂と言われ、十腰内(とこしない)の由来は、「強力の刀鍛治鬼神太夫が十振の刀を打ち出して自慢したが、一振飛んで杉に突き刺さったので里人はこれを神として尊敬し、九振が残ったために十腰無い村とよんだといういい伝えがある」(角川地名大事典)。
という製鉄を連想させる逸話のある地名だったのですが、現在は地図を見るかぎり十面沢(とつらざわ)に鎮座しているようです。
現在も津軽三十三観音霊場の第五番札所となっており、巌鬼山観音堂とも呼ばれ、地元の人達も「かんのんさま」と呼んでいっるようで、明治政府が取り替えた、御祭神の大山祇神に手を合わせる人は、他府県人の我々位なのでしょう。
百澤寺(ひゃたくじ)に併合された観音堂は元禄四年、氏子によって再興された・・・とあります。岩木山、南側の岩木山神社 は日本総鎮守、高照神社 は津軽藩の守護神と公の祭祀を司り、北側のここ巌鬼山神社や 大森の大石神社は民衆の信仰を集めたのでしょうか。大石神社はここより北4km程の所にあり、巌鬼山の起源も巨石信仰にあったのではないでしょうか。又、どちらの由緒にも長見孫太夫の名前が登場します。古くは一体であった可能性も否定出来ないような気がします。
神社入り口と社号標
参道
四の鳥居と社号標
やや猫にも似ている平成の狛犬。拡大写真はこちら。
(平成8年(1996)10月17日建立) 巌鬼山神社1200年祭記念
二番目は昭和の狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和9年(1934)旧7月10日建立)
三番目は素朴なはじめタイプ。拡大写真はこちら。
拝殿。左手の杉は県下最高齢を誇る。
拝殿内部
石垣の上に建つ本殿。四番目の狛犬はこの中に居られます。
本殿正面
尖った顔、長く垂れた耳等、変り種の多いここ津軽でも結構ユニークな狛犬です。拡大写真はこちら。
本殿木鼻の見返り狛。狛犬は阿吽が逆だが、これは普通の組み合わせ。
石仏
龍神社
末社
県天然記念物の大杉