弘前市高岡字神馬野 (平成21年7月21日)
東経140度21分28.61秒、北緯40度37分14.04秒に鎮座。
この神社は、岩木山の南東5km程の辺り、百沢温泉の近くに参道入り口があり。そこから北西に伸びる参道を300m程行った辺りに壮麗な社殿を構え鎮座しております。
御祭神 天児屋根命、武甕槌命、比売大神・少彦名神・伊波比主神・大山祇神・津軽為信命・津軽信政命
例祭日 七月二十一日
由緒
ここは古くから春日四神を祀る小社があった。津軽藩四代の藩主信政公は、これを崇敬していたが、唯一神道の師祖吉川惟足に師事し晩年この小社の側に地を相して死後の廟と定め、宝永七年十二月六十五才をもって没した。五代信寿公は遺命によってこゝに葬送し、翌年正徳元年社殿を造営して春日四神と共に信政公を祀り更に明治十年藩祖為信公を合祀した。明治十三年県社となった。
青森県神社庁公式サイトより。
国重要文化財に指定されている高照神社には、津軽を統一した藩祖為信公と、名君と讃えられた四代信政公とが祀られています。
高照神社は、弘前藩四代藩主津軽信政公を神式で埋葬するために、遺言により五代藩主信寿公が、正徳元年(1711)から正徳2年にかけて高岡に建立した神社です。
高照神社公式サイトより。
高照神社
創建 正徳元年(1711)
祭神 天児屋根命、武甕槌命、伊波比主神、比賣大神、津軽為信、津軽信政
沿革
明暦ー宝永(1656〜1710)の間津軽藩の名君と仰がれた信政公は吉川神道を修めた第一人者であった。古来ここにあった春日四神を尊信し生前社殿を造営しようとされたが果たさなかった。死後をこの近くに定め宝永七年没した。五代信寿公は正徳元年社殿をここに造営、春日四神と共に信政公を祀った。明治十年藩祖為信公を合祀した。
吉川神道を信奉した弘前藩四代藩主の津軽信政は、自らの葬地を高岡と定め、宝永七年(1710)に弘前城で死去した。五代藩主信寿はその遺言に従って神葬。正徳元年(1711)に廟所を、翌年には本殿などを建立したほか、享保六年(1721)には門前に屋敷割りを行い、現在の高岡集落の元をつくった。その後、七代藩主信寧が拝殿を、九代藩主寧親が随身門や廟所門を整備した。
境内由緒書より。全文はこちら。
現在は高照神社と称しているが、明治までは、「高岡霊社」。四代津軽信政が、吉川神道の創始者である吉川惟足に師事し、奥義を極め「高照霊社」の神号を授けられたことに始まるという。しかし高岡霊社となったのは家康を祀る東照宮の「照」を避けたのかも知れません。神を祀るのが神社、人の霊を祀るのが霊社のようです。明治の世になり、徳川家への遠慮も不要になり、高照神社の名称を名乗れるようになったと思われます。その際、津軽氏は藤原姓なので春日の神、天児屋根命を合わせて祀り、晴れて明治政府公認の神社となったようです。
しかし、津軽信政公は岩木山三所大権現という立派な守護神がありながら、何故自ら神になりここ津軽の地を守らなければならなかったのだろうか。
二代藩主、津軽信枚(のぶひら 1586〜1631 為信の三男)の妻は、徳川家康の異父弟で下総関宿藩主松平康元の娘で、家康の養女として津軽家へ輿入れした満天姫(まてひめ)。豊臣政権により所領安堵された津軽家は徳川政権に乗り換える必要があり家康の養女を向かえたと思われます。家康に勧めたのは南光坊天海。その時本州最北端のこの地を日本の、そして徳川家の守りとしたのではないだろうか。岩木山神社の由緒書にも「畏き辺りも日本の北門鎮護の名社として・・・」と書かれています。確かに岩木山神社は南向きに建っています。こういった事情で津軽藩のみの守護神が必要となったのかも知れません。津軽信政公の後、神道を極めた藩主は無く信政公一人。目的は果たされたようです。
宝永7年(1710年)に卒去した弘前藩4代藩主の津軽信政の廟所に起源を持つ。5代藩主信寿が信政の遺言に則り、翌正徳元年(1711年)に吉川従足を斎主とする神葬祭を斎行して廟所を営み、その翌年(1712年)に本殿を造営して信政の神霊を遷祀したのが創祀で、享保15年(1730年)に「高照神社」と称した。藩政時代を通じて津軽氏歴代の崇敬社であった。
明治4年(1871年)に春日4神を勧請し(津軽氏が本姓藤原氏を称したため)、同10年(1877年)に藩祖為信を配祀、同13年(1880年)に県社に列した。戦後は神社本庁に参加。戦後は神社本庁に参加。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
神社入り口と一の鳥居
二の鳥居と参道
神橋と三の鳥居
随身門
四の鳥居
拝殿
拝殿内部
拝殿内の絵馬
本殿
廟所への参道。本殿には信政の神霊を祀り、廟所にはお骨があるのだろうか。
廟所門
隙間より伺う、廟所拝殿。現在は扉が閉まっており入れません。
平成14年に訪れた時は開いており、その時撮った「越中守藤原信政墓」。
深い緑に囲まれ、落ち着いた佇まいをみせるとても静かな神社です。しかし、津軽家だけで祭祀が執り行なわれていた為で、領民の崇敬の対象では無かったと思われます。現在も氏子は居ないのでしょうか。建物の傷みは結構進んでおり、修理が必要かと思われます。高照神社公式サイトはこちら。