熊野神社

富山市婦中町中名851-1(平成21年8月19日)

東経137度10分13.24秒、北緯36度38分21.72秒に鎮座。

【神社情報・ナッキーさんより】
 この社は68号線と218号線が交差する中名信号北に鎮座しています。

 御祭神:伊弉册尊、事解男神、 速玉男神
 祭礼日:8月25日・例大祭
 由緒:爲成郷十八ケ村総氏神熊野神社御由緒記
 当神社は伊奘册尊、速玉男命、事解男命の三神を祀る。往古よりの大社として社家社僧が奉祀し、鎌倉初期の承元元年(1207)に立山の光明房林海を始め、時宗系の僧徒も奉仕したと伝える。
 應仁年間(1467〜1469)京都の神祇管領吉田神社よりも神官が下向奉仕したという。創建当時より当神社は婦負郡爲成郷十八ヶ村、中名、蔵島、持田、萩島、道場、堀、新屋、袋、板倉、砂子田、坪野、添島、清水島、地角、海川原、爲成新、道喜島、十五丁の総鎮守として今猶当社を氏神と崇敬し、毎年初穂米を神納されている。永禄年中(1558〜1570)兵火に遭いたるも、寛永年間(1624〜1643) 以来領主前田家累代の信仰厚く、宝永7年(1710)社殿を造営、古式の祭典をも復興することとなった。
 明治6年指定村社に列せられた。
 宝永元年(1704)秋爲成郷内に悪疫が流行し、当時の肝煎職であった坪野村の若林源左衛門の息子と、召使の者が相次いで病気にかかった。その時爲成郷の各村々の人達が、当熊野神社の祭事を怠っており神が怒り給うのである。爲成郷の肝煎役責任者である汝若林源左衛門は、直ちに村々の人達と相談して祭事を復興するようにという熊野大神の託宣があった。そこで源左衛門は私財を投じて盛大な祭りを行ったところ、悪病はたちまち退散し豊作に恵まれ、それ以来爲成郷内の氏子一同挙げて祭禮を盛大に奉仕することとなった。
 これに由来して御遷宮式と称し、宝永7年(1710)庚寅に第一回とし、12年の寅の年毎に坪野村の若林源左衛門の屋舗を御旅所と定め、爲成郷の各村々を神輿が御巡幸される大祭典を、爲成郷の里を挙げて今もなお奉仕している。
 稚児舞はこの時の祭りに由来し、例年8月25日の例大祭に拝殿の正面に舞台を設置し、氏子より選ばれた10才迄の男児大稚児2人小稚児2人計4名で舞楽を奉納している。
 この舞楽の種目は次の順で舞うことに定められている。
  一 鉾の舞
  二 賀古の舞
  三 林歌の舞
  四 蛭子の舞
  五 小奈曽利の舞
  六 大奈曽利の舞
  七 陪臚の舞
の七種である。なおこの舞楽が終了の後に境内鳥居の向って左側に高く積み上げた土俵上において大花相撲が奉納されていた これを中の名の高土俵関と称して近郷から関を争い名高かった。

 尚、この社は式内社越中國婦負郡・熊野神社(論社4社。富山市宮保・熊野神社、富山市婦中町友坂・熊野神社、富山市婦中町中名・熊野神社、富山市婦中町熊野道・熊野神社)の論社となっています。

「爲成郷十八ケ村総氏神熊野神社御由緒記」「熊野神社稚児舞」案内拡大写真はこちらで

社頭
社号標
「延喜式内
熊野神社」
入口に立つ台輪鳥居
境内の様子
手水舎
拝殿
本殿を護る明治23年生まれの浪速狛犬
威厳の感じられる良い造りをしています。
(明治23年(1890)建立)
本殿