熊野神社

富山市宮保476 (平成26年9月19日)

東経137度13分13.69秒、北緯36度37分27.64秒に鎮座。

この神社は、富山空港の南東4km程の辺り、辰尾団地のすぐ北側に鎮座しております。越中国・婦負郡の熊野神社に比定される式内社の論社といわれています。

御祭神 櫛御気野命

由緒
熊野神社の所在地という意味でその地を熊野郷と呼ぶようになり、その熊野郷は上熊野と下熊野の二村にわけ、供田や神饌田を有して社家と神子の両家で神事をとり行い、一、二、三の鳥居の続いた大社でした。神前を流れる川で手を清めて参拝したので、その御手洗川を熊野川と呼ぶようになりました。享保10年(1725)7月におそろしいひでりが続いたとき、当時の神官横越阿波守則恒が藩主の命うけて、17日間の雨ごいの祈祷をしました。領内の神官全員参列しての神事でしたが、その7日目に雨が降り出し、霊験をたたえて参拝する人の列が続いたと伝えられております。木草学(薬学)の大家、富山藩主前田利保公は、領内の巡視にはいつも当神社へ立寄り、神前へ詣でては五穀の豊作と天平の泰平を祈り、その祈願料として高十石を奉納になりましたが、これは明治維新まで続きました。
(「全国著名神社名鑑」「平成祭データ」より)

この神社は斉明天皇時代(655〜661)に御鎮座になったとされ、熊野大神を主神に祀る。律令時代には祈年頒幣を賜り、寛平元年(889)には神階従五位を授かったとされる。熊野大神とは肥沃な平野の守護神とされ、この地方は熊野郷と呼ばれる肥えた大地であった。近くを流れる熊野川は、この神社の御手洗の川ということでこの名がつけられたという。江戸時代には富山藩主の崇敬も厚く、虫追いの祭り、雨乞いの祭り、国土平安の祈願などがおこなわれてきており、当時の藩主前田利保公が珍重した当神社の達磨草(座禅草)を江戸城内で全国諸大名に披露して面目を施した故を以て、富山藩より高十石を賜ってこの草の保全につとめた。

尚、この社は式内社越中國婦負郡・熊野神社(富山市宮保・熊野神社、富山市婦中町友坂・熊野神社、富山市婦中町中名・熊野神社、富山市婦中町熊野道・熊野神社)の論社となっています。

境内由緒書き より

参道入口

参道入口の狛犬。拡大写真はこちら。
(大正9年(1920)10月建立)
入口に立つ両部鳥居と社号標「延喜式内 熊野神社」

参道

参道途中の狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)

拝殿

拝殿内部

拝殿の裏側、本殿参道に架かる神橋。

本殿

本殿を護る狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)

後側のはじめ狛犬


御神木