女塚(おなづか)神社

大田区西蒲田6-22-1 (平成24年9月1日)

東経139度42分55.90秒、北緯35度33分43.98秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
JR蒲田駅の北西500m程、相生小学校の南側に鎮座しております。

御祭神 誉田別命

御由緒
当社は以前、八幡社と呼ばれ女塚(おなづか)村429番地(国電蒲田駅東口付近)に鎮座していましたが、明治5年、京浜間に鉄道が敷設されるため、明治21年現地に遷座され、女塚神社と改称されました。現在の社地は、新田義興憤死のおり、侍女であった少将局が忠節を尽くしてともに害せられたのを村民が憐み、この地に祀ると伝えられ、八幡社を遷座する以前より村民の栄敬の厚い聖地でありました。現在も境内の一隅に女塚霊神の塚が残っています。

女塚神社
新田義興憤死の時の侍女少将局忠節を尽して共に害せらる、村民憐れみて、此の地に祀りしと云う。 元別当 妙成寺
大田区の文化財 より

女塚
除地一畝六歩、村の南にあり、一坏の小墳なり、小笹雑木おひ茂りて寂々たり、村老のつたへに、往昔當所に長者あり、その女の死しけるをここに葬りしと、又云いづこの人とも知らず美婦人この地にて害せられしに、里人あはれみてここに埋めし印の墳なりしと、かかるいひ傳へのみにて其年代もつたへず、とにかくさだかならぬことあり、村名の由来する所なれば、別にゆへある人の墓なるべし、
新編武蔵風土紀稿 より

新田義興公を祀った神社は大田区矢口の新田神社、 同十寄神社があります。

参道

入口

手水舎

狛犬(昭和40年(1965)8月吉日建立)&拝殿

拝殿内部

本殿


女塚霊神

女塚古墳の由緒
南北朝時代の烈士新田義貞の子義興公は越後の國に城郭を構えいたりしも其の勢漸く武蔵の國に萌しければ鎌倉管領足利基氏は家臣畠山國清と計り竹澤右京亮に命じて義興公を矢口の渡しにて欺き討つ。時に正平13年(1358) 10月のことなり。
義興公憤死の時その侍女少将局忠節を盡して共に害せらる。村民憐れみて此の地に祀り、侍従神と崇敬し爾来女塚と稱す。

社殿

手水石・寛政五癸巳(1793)年

稲荷神社(左)&白山社(右)

祭具庫