日光二荒山神社

 日光二荒山神社は日光市内に、奥宮(男体山山頂)、中宮祠(中禅寺湖畔)、御本社(山内)の3社が鎮座しています。

 その神域は、男体山・女峰山・赤薙山・太郎山・大真名子山・子真名子山・前白根・奥白根の八峰を含む広大な地域にわたっているそうです。社域の広さでは伊 勢神宮についで、日本で二番目なのだそうですが、いつもチマチマとしたところに住んでいる身には想像すら出来ないほどの広域です。未だ若かりし頃、男体 山、前白根・奥白根には登ったことがあるのですが、あそこも神域だったのですね〜、恐れ入りました。
  

 御祭神:二荒山大神(大巳貴命(大国主命)・田心姫命・味耜高彦根命)

 例祭日:武射祭・蟇目式神事・1月4日、開山祭・5月5日、弥生祭・4月13日〜4月17日(4月17日例祭)、登拝祭・7月30日〜8月8日、日光連山登拝祭・8月下旬、仲秋登拝祭・9月21日、閉山祭・10月25日

 境内外社:朋友神社(少名彦名命)、大国殿(招き大国様)、日枝神社(大山咋命)、小真名子山神社、大真名子山神社、北野神社、太郎山神社(味耜高彦根命)

 別宮:本宮神社(味耜高彦根命)、滝尾神社(田心姫命)、滝尾高徳水神社(罔象女大神・ 昭和54年、丹生川上神社より勧請。平成10年、現在地に遷座)

 由緒:この社は、関東総鎮守の社で下野國一宮。日光の三つの山の神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命)を総称して二荒山大神と称し、主祭神としている。
 三つの山とは、男体山(二荒山、2486m)、女峯山(2464m)、太郎山(2368m)の三山である。この山々は神体山いわゆる神奈備であり、神が 鎮まる霊峰として古くから信仰されてきた。この日光の神々は「日光三山」「日光三所大権現」などと呼ばれ、山の名前からもわかる通り、これらの神々は親子 と考えられてきた。
 二荒山大神に現在の神が当てられたのは12世紀頃だと言われる。さらには本地垂迹説によりそれぞれの神に仏が当てられ、現在でも輪王寺ではこれらの仏を 祀っている。下野国の僧勝道上人(735-817)が前日光から更に奥地に修行場を求め、大谷川北岸に766年に現在の四本龍寺の前身の紫雲立寺を建て、 それに続いて神護景雲元年(767年)、二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたのが当社の始まりと伝える。この祠は現在の別宮となっている本宮神社であ る。登頂を志して多くの失敗を重ねたあと、782年には二荒山の到頂に成功し、そこに奥宮を建て、日光修験の基礎を築いた。その後、神仏習合の霊場として 栄えることとなった。社伝などでは勝道上人が起源と説明されるが、実際には太郎山神社周辺で古代の祭祀の痕跡をしめす遺跡が見つかっており、相当古くから 聖地として信仰の対象になってきたことが分かる。
二荒山(ふたらやま)の名は、諸説あるが観音菩薩が住むとされる補陀洛山(ふだらくさん)が訛ったものといわれ、のちに弘法大師空海がこの地を訪れた際に 「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたといわれる。空海はその訪れた際に女峯山の神を祀る滝尾神社を建てたという。また、円 仁も日光を訪れたとされ、その際に現在輪王寺の本堂となっている三仏堂を建てたといい、この時に日光は天台宗となったという。その後、二荒山の神を本宮神 社から少し離れた地に移して社殿を建て、本宮神社には新たに御子神である太郎山の神を祀った。「日光三所」はこのとき新たに建てた現在の本社と本宮神社、 そして滝尾神社をさす。
 戦国時代には、後北条氏に加担したため、豊臣秀吉に領地を没収され衰退した。江戸時代初め、隣接して徳川家康を祀る日光東照宮が創建され、当社はその地 主神として徳川幕府から厚く崇敬を受けた。明治6年の近代社格制度制定時に国幣中社に列格した。第二次大戦後は神社本庁の別表神社となった。
 江戸時代までは神領約70郷という広大な社地を有していた。今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名 子山・小真名子山・赤薙山)や華厳滝、いろは坂などを境内に含み、その広さは3400ヘクタールという、伊勢神宮に次ぐ面積となっている。
(フリー百科事 典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)


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