鎌田神明宮

只今境内工事中なのですが、本殿回りの壁を作り直しまして、本殿の周囲を(おそらく30年ぶりに)掃除いたしましたところ本殿床下よりなんと「狛犬」がでてまいりました。(鎌田神明宮・袴田宮司さんより)

今の本殿は昭和51年の御遷宮の時、つまり33年前に造られました。その時床下に置かれたのかもしれないのですが、それ以前にも狛犬を見た者がおりませんし、又、新しいものにも見えません、、、。そのころの事情を知る者が誰もおりませんで一同びっくりしております。祖父も父も鬼籍ですし。判る限りの書物には何も記載がございません。当社に狛犬があっただなんて一度も聞いたことがございません。(鎌田神明宮・袴田宮司さんより)

本殿床下。奥右隅に阿吽の一対、寄りそうように置かれています。

そのままの姿勢では出せず、段ボールの上で横になっていただき、引きずって出ていただきました。

精悍な顔つきの素晴らしい神殿狛犬です。吽には角が付いていたように見えますし、阿にはしっかりと雄のシンボルが付いています。

この後、総代、前総代を交えた氏子さん達の「床下に置いておくのは、可哀想だ」との意見が一致し、拝殿内のガラスケースに収まることになり、狛犬さん達も安住の地を得ることが出来ました。目出度し目出度しと、一件落着。

ここで本日お集まり戴いた、氏子さん達の最大の関心。いつ頃の狛犬か。・・・・・
 有名な大宝神社の狛犬地主神社の狛犬谷保天満宮の狛犬、等とは姿形も異なり、雌雄の違いもあり、鎌倉時代の作とは思えません。雌雄の違いは室町以降と言われますが、そもそも室町時代の狛犬は全く無いと言い切って良い位ありません。又、この神明宮が甲斐の武田信玄に燃やされていることからも、江戸時代以降と思われます。又、明治時代には神殿狛犬について内務省が「獅子は、開口して金箔を押し、毛髪には緑青を塗り、金の毛描を施し、狛犬は、閉口して銀箔を押し、毛髪には群青を塗り、銀の毛描を施す。何れも州浜型の台に据う」との基準を設けたので、朱の彩色のみが施されている点からもこの狛犬は該当しないと思われます。
 享保20年(1735)のご遷宮の時に、拝殿前や、二の鳥居の大きな灯篭、手水舎が奉納されているとのことなので、その時の奉納かも知れません。石造参道狛犬の奉納は江戸時代中期頃に盛んになっていますが、神殿狛犬は例が少なく、又、一般参拝者の目にふれる機会も少なく、特定は困難と言わざるを得ません。しかし享保年間と言えば8代将軍徳川吉宗による享保の改革。又、江戸四大飢饉の一つに数えられる享保の大飢饉が享保17年。飢饉の傷跡も癒えた頃、五穀豊穣の神、豊受姫之神に領内の平安、豊作祈願等で奉納したのかも知れません。

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