愛宕神社

川越市富士見町33-1 (平成22年2月11日)

東経139度29分41.48秒、北緯35度54分5.31秒に鎮座。

この神社は、川越線・川越駅の南東1km程の辺り、16号線の南側にある古墳の上に鎮座しております。この古墳は、仙波古墳群の一つで「母塚」とも呼ばれ、「父塚」と呼ばれる「浅間神社古墳」から国道16号を挟んだ向かい側に位置し、隣りは仙波河岸史跡公園となっております。

祭神は火産霊命(ほむすびのかみ)で、文禄二年(1593)正月、山城の国(今の京都)の愛宕神社から分霊を奉祭したものと伝えられています。
古来より火伏の神、麻疹の神として信仰されて来ました。麻疹が軽く済むようにと母親が子供を抱いて社殿櫓の下をくぐり抜ける習わしがあります。・・・・

当社は仙波河岸にある。仙波河岸は新河岸川舟運の最上流の河岸であり、古くから東照宮・三芳野神社の資材運搬時に利用されているが、正式な河岸開設は明治初年である。河岸としては新しいが当地の歴史は古く、『風土記稿』に「塚三、六角堂塚、猫山塚、甲山寺塚の名あり」とあり、当社について「愛宕社 円径50間、四方の塚上に立、この社頭よりの眺望東南の方打開けて、最も勝景の地なり、又爰より坤の方二三町を隔て浅間の社立る塚あり、土人いかなる故にや其塚を母塚と呼び、当所を父塚とわかちいへり」と載せている。
また『武蔵三芳野名所図会』には「祭神彦火々出見尊、別当万仁坊当山派修験、往古此所迄武蔵野なりし頃此辺の野中に百塚あり、就中富士浅間之山と此愛宕と尤大也、依而父塚母塚と云ひしか何の頃にや浅間と愛宕の両社勧請せり。瀑布麓に有清潔之冷泉にて参詣之人かならす此飛泉に垢離す、毎年6月24日を以て祭祀あり、此日柴焼護摩修行ある。摂社婆伽羅龍王」とある。
社記は「祭神火産霊命、平安の頃山城国愛宕山より分霊を奉斎、天文9年(1540)川越城大道寺駿河守の許状、文禄2年(1593)山城国愛宕山長床坊内東光坊の末寺とする書状があり。慶長19年(1614)川越城主より中田一反中畠一反の寄進がある」と記す。社殿造営は文化7年庚午(1810)6月15日別当万仁坊銘の本殿棟札がある。現在の本殿は関東大震災後の再営である。仙波愛宕神社所蔵の文化財
境内由緒書より。全文はこちら。

神社全景

鳥居

参道石段と狛犬

手足が失われていますが、健気にも現役で頑張っています。拡大写真はこちら。

拝殿

本殿

地蔵菩薩開眼と書かれています。愛宕権現の本地仏は勝軍地蔵。今でもお地蔵様が祀られているようです。文禄二年(1593)正月、山城の国(今の京都)の愛宕神社から分霊を・・・と由緒書にありますが、明治以前、山城国愛宕山頂にあったのは、愛宕神社ではなく、愛宕山白雲寺。勧請したのは火産霊命では無く、愛宕大権現=勝軍地蔵だったと思われます。

仙波河岸公園