浅間神社

川越市富士見町21-1 (令和5年4月1日)

東経139度29分31.78秒、北緯35度54分00.95秒に鎮座。

この神社は、東武東上線・川越駅の南東600m、富士見町内の国道16号線に面して鎮座しております。浅間神社古墳・通称父塚と呼ばれる古墳上に建つこの神社にはまた、東歌の誕生の地はここであるという碑がたっています。浅間神社古墳と東歌の誕生の地については下記にてどうぞ。こんもりとした円墳は木々に覆われ、社殿裏には溶岩を積み上げて富士山を模した祠の前に端正な神使いのお猿さんがいます。その後ろには富士山の噴火口を現した岩穴があり、ここにお賽銭を投じて安産と開運を祈願するそうです。ここは江戸中期に浅間信仰が盛んになった時に創建された神社であります。

御祭神 木花咲耶姫命

由緒
当神社は康平年間(1058〜1065)、源頼義が奥州征伐の途次に分霊したことに始まり、長禄元年(1457)に太田道灌が再営し、永禄9年(1566)に北条氏臣・中山角四良左衛門が再興したという。
文政11年(1828)川越南町の山田屋久兵衛が近郷富士講中並びに有志老若男女の助力を受け、拝殿一棟の再建と1丈余の岩室の上に更に1丈有余を新築したと棟札に記されている。
岩室前の石猿に天保4年(1833)の銘があることや、石碑類の多くが天保年間に造営されていることから、文政から天保年間に現在の形が整えられたと考えられる。(この岩室は、大正12年の関東大震災により崩壊し間もなく再建したとの柵石がある。)
拝殿の天井は、中央部が折上格天井(おりあげごうてんじょう)になっており、江野楳雪(1812〜1873)による百人一首歌仙像の絵がくみこまれている。
神社の祭神には木花咲耶姫命が祀られている。江戸中期、関東一円に浅間信仰が起り、富士浅間神社を分霊した当神社には、近郷の多くの村々が講を作り、寄進したことが石碑や柵石に刻まれている。
毎年7月13日の初山には、子育ての神が転じて子宝に恵まれる神としても信じられ、新婚夫婦・幼児を抱いたお母さん方など毎年一万人にも及ぶ参拝客が訪れている。参拝客は、暑さに向かう夏の健康を願いあんころ餅を、夏の難病と厄病を追払い毎日を健やかに過ごすようにと団扇を買い求め、お仲人や近親者に配る習わしになっている。
境内由緒書き より。

参道入口

参道

拝殿

拝殿内部

富士塚

本殿

端正な神使い神猿


石祠

占肩の鹿見塚(うらかたのししみづか)

万葉集巻十四の
武蔵野に占(うら)へ肩灼きまさでにも 告(の)らぬ君が名うらに出にけり
という歌は古代日本人が多く住でいた鹿を持し、その肩を焼いて吉凶を占った習慣にことよせた情緒深い歌であるが、この誕生地が長いこと謎だった。
この仙波の地には、父塚・母塚もふくめて古墳群が形成されていた。しかし、この鹿見塚は大正3年に東上線が開通する際、破壊され消滅してしまったが、土地の小名にも「シシミ塚」「シロシ塚」などと記録されている。シシとは鹿のことである。
建碑の場所は便宜上浅間神社の前を選んだのである。
川越市教育委員会

武蔵野で鹿の肩骨を焼いて占ったが、人には打ちあけもしないのに、愛していることが占に出てしまいました―東国処女はこう嘆く・・という解釈になるらしいのですが、詩心の全くない私には良く分かりませんでした。往古東国の人々が、武蔵野に棲んでいた多くの鹿を狩り、その肩骨を焼いて吉凶を占う風習があり、この故事から情緒深い占肩の歌が遺され、地名をシシミ塚と称していたそうです。

又、毎年7月13日は「仙波浅間神社の初山」で、過去1年間に結婚した花嫁、またお子さんが出来ると初詣する日で、お土産にはあんころ餅と団扇を買って帰り、あんころ餅は夏の健康のために、そして団扇は夏の難病及び疫病を追祓い夏を健かにすごすよう、お仲人や近親に配る習わしになっています。
またこの浅間神社の冨士詣は宝暦3年(1735)頃より盛んに成って現在まで続いており、冨士山の霊を祀った浅間神社の霊威に基く信仰で日本一のお山の冨士山のように、新婚さんまたお子様が社会に出て出世するよう参拝するものであります。神社の後ろにある岩穴は冨士山の噴火口を現したお池で、ここにお賽銭を投じて安産と開運を祈願いたします、昔の人は駿河の冨士山までお参りに行くのは大変ですので当地に駿河の冨士山を祭り冨士山の山開きに初めて登山する意味をもつものであります。