末吉宮

那覇市首里末吉町1-8(末吉公園内)(平成20年1月24日)

東経127度42分57.36秒、北緯26度13分34.45秒に鎮座。

 この神社は末吉公園の最奥、山頂付近に鎮座しています。
 末吉公園入口脇の駐車場から、いったん公園中央部を東西に流れる川に向かって石段を降りていきます。どこか懐かしい雰囲気がある清流の流れる川に架かる橋を渡ると、公園の中心部分となり、劇聖玉城朝薫生誕三百年記念碑や沢山の寒緋桜が咲きほこり、ゆったりと休んでいる人や、お花見をしながら散策する人たちがいました。
 ここからは石段の登りで、石段を登り切ると平坦地となるので右折して進みます。ここから60mほど進むと末吉宮跡の石碑があり、そこから左折すると石畳の参道が延びています。山道となった石畳の参道は緩い階段状になり、石碑から登ること約120mでやっと社務所が見えてきます。
 社務所の正面にはトンネルのようなものが見えますが、このトンネルが、社殿までのアーチ橋階段の下の部分にあたるのです。さらに社務所横から石段を登ると石組みが組まれた上に祭場があり、祭場の正面の石段の上には京都の清水の舞台を彷彿とさせる造りの高床式の拝殿が建っています。又、祭場からは対岸の小高い丘の上に首里城が良く見えます。本殿は少し離れた岩盤の上にあり、祭場と社殿の間はアーチ状の石の階段で繋がれています。本殿の間近に行くには祭場から反対側に降り、本殿脇へ続く石段や橋を登ると右側に近づくことが出来、帰りは先ほどのトンネルを潜ると戻れます。
 古くから琉球八社の一社として沖縄の人々に崇敬を受けてきた神社ですが、その立地条件や社殿の造り等から、一番印象に残る社となりました。

 御祭神:伊弉冉尊 速玉男神 事解男神
 由緒:末吉宮は、かっての琉球八社(波上宮沖宮識名宮普天満宮・末吉宮・八幡宮天久宮金武宮)の一つで、俗に「社壇」と呼ばれています。尚泰久王代の1456年頃、首里の天界寺住持鶴翁和尚が、熊野三社権現を勧請して奉祀したのにはじまるといわれています。
 本殿は三間社流造り本瓦葺きで、前面に向拝を付しています。磴道は、参道を登りつめたところから祭場までの8段、祭場から拝殿跡までの21段および拝殿跡から本殿までの7段の一連の石造階段部分をいいます。本殿と祭場はそれぞれ別の岩盤の上にあり、両間は切石積みの石造単拱橋(アーチ橋)で継がれています。なお、磴道は昭和46年に修理され、本殿は昭和47年に復元されました。
 末吉宮の下方には、末吉宮の神宮寺で俗に「末吉の寺」と呼ばれる遍照寺(もの万寿寺)の跡があり、この寺は山号を大慶山といい、真言宗に属し、沖縄における神仏混淆の信仰形態を知るうえで重要な資料です。また、社殿の周囲の崖下には点々と拝所が設けられ、信仰の対象となっています。(参道石碑より)

末吉公園駐車場から対岸の山頂付近に見える末吉宮社殿
(望遠で撮影)
末吉公園駐車場から
公園内に下っていく石段
石段脇には真冬だというのに
薔薇の花が咲いていました。
公園中央部を東西に流れる川に架かる橋 橋を渡ると登りになります
公園内に建つ
劇聖玉城朝薫生誕三百年記念碑
記念碑周辺には沢山の寒緋桜が植樹され、今を盛りと咲き誇っていました。
まだまだ階段は続きます。 階段を登り切ると平坦地となるので
右折して進みます。
「史跡 末吉宮跡」の石碑 「史跡 末吉宮跡」の石碑を左折すると、
いよいよ山道となります。
山道は石が敷き詰められた石畳の
緩い階段状になります。
「史跡 末吉宮跡」の石碑から
登ること約120m
やっと社務所が見えてきました。
社務所から進むと、正面に
トンネルのようなものが見えてきます。
このトンネルが、拝殿までの
アーチ橋階段の下の部分にあたります。
トンネルを潜らずに右折し階段を上がると
石組みが組まれた上に祭場があります。
高床式の拝殿は、京都の清水の舞台を彷彿とさせる造りで、
ちょうど地元の方が参拝されている最中でした。
拝殿に架かる
「社壇 末吉宮」の社額
参道を登りつめたところにある祭場
祭場からは対岸の小高い丘の上に首里城が良く見えました。
祭場から反対側に降りると、本殿脇へ続く石段や橋があります。
大きな岩盤の上に鎮座する本殿