新田(にった)神社

薩摩川内市宮内町1935-2(平成22年1月7日)

東経130度17分41.97秒、北緯31度48分54.36秒に鎮座。

 御祭神:天津彦彦火瓊瓊杵尊、配祀:天照大御神、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊
 祭礼日:1月7日・武射祭 稚児の流鏑馬、3月春分の日・早馬祭 鈴懸け馬踊、4月上旬・桜祭、6月入梅の前日曜日・御田植祭 斎田・田の神舞、7月28日・御神鏡清祭、8月7日・御宝物虫干祭、9月15日・例大祭、10月最終土曜日・御通夜祭、11月23日・新嘗祭 豊饒感謝、毎月15日・月次祭
 境内社:西門守神社、東門守神社、早風神社、中央神社、高良神社、武内宮、興玉神社、二十四社、稲荷社、若宮四所宮
 御由緒:薩摩國総鎮守 国幣中社(現別表神社)
 新田神社は神亀山という亀の形をした小高い山の上にあります。祀られている神様は天皇様の先祖にあたる瓊瓊杵尊様を中心として、尊様のご家族の神様、食物の神様、山の神様などたくさんの神様がおられます。
 古い言い伝えによりますと、遠い神代の昔、高天原にいらっしゃいましたお日様の神様天照大御神様が孫にあたる瓊瓊杵尊様に私たちの住んでいる地上の世界を治めるようにお命じになりました。その時に稲穂をいっしょにお持ちしてお米をつくるようにおっしゃいました。「齋庭稲穂の神勅(ゆにわのいなほのしんちょく」といいます。
 そこで瓊瓊杵尊様はたくさんの神様をお連れになり今の鹿児島県の霧島にあります高千穂の峯に降りられました。「天孫降臨」そこではじめてお米をお作りになり、続いて同じく今の鹿児島県の加世田市にあたる笠沙宮に移られ、山の神様の娘であり大変美しい木花開耶姫命様と結婚されてその後、海路東シナ海を北上されて川内の地にこられました。
 川内にお着きになられた瓊瓊杵尊様は、この地に立派な千台すなわち高殿を築いてお住まいになりました。川内(せんだい)の名はこの「千台」からきています。
 やがて瓊瓊杵尊様はお亡くなりになられて、お墓がつくられました。これが今の「可愛山陵(えのさんりょう)」です。そしてその瓊瓊杵尊様をお祀りするようになったのが新田神社の始まりといわれています。
 もともとは社殿がなくお山そのものが神社であったとも伝えられ、新田神社の「新田」という名前には、瓊瓊杵尊様が川内の地に川内川から水を引いて新しく田んぼをおつくりになったという意味がこめられています。
 新田神社の名前が古文書では始めてでてくるのは平安時代の末頃で、当時は「新田宮」と称していました。このころには薩摩国の守り神様として朝廷や幕府からも深い信仰をうけていました。
 今から八百年程前、承安3年(1173)に火災があり、それまでお山の中腹にあった社殿が焼け失せてしまいましたが、この時も朝廷や幕府に伺いをたてまして現在の山頂に再興されました。島津氏が薩摩国に封じられましてからは歴代藩主の崇敬は殊に厚く、四百年前の慶長年間に島津義久公により現社殿の元となるものが造られました。
 明治時代にはいりましてからは皇室の御崇敬を賜り、明治18年に国幣中社となり、大正9年に昭和天皇様が皇太子の時御参拝いただきましてより皇族の方の参拝が十度におよんでいます。
 (「参拝の栞」より)

一の鳥居より境内入口まで

境内・社殿・末社等