茂侶神社

松戸市小金原5-28-13 (平成23年1月4日)

東経139度56分45.69秒、北緯35度48分57.33秒に鎮座。

【神社情報・1948さんより】
小金原団地の北西の角より真西100m程の所に参道入口があります。住宅に囲まれて鎮座しています。黄門様公認の茂呂神社です?・・

御祭神 大物主命

御由緒
仰々當神社は今から凡そ壹千年前古代平安時代の中期に完成した延喜式神名帳(九二七)によれば下總国葛飾郡内二社中の一社で正五位の格式社であり祭神は大物主命である。中世室町時代寛正二年(一四六一)二月にはこの地に本拠を置いた戦国大名高城下野守胤吉が當社の本殿及び拝殿を再建し當地方の鎮守とし武運長久の祈願社としていた。近世江戸時代の初期に至り、小金西新田(現小金原二・三・六・七町目の一部分)に在った水戸家所領八拾参万平方米(約八拾参町歩)に黄門義公お鷹場の役所を設け領地の南北に表裏二門を建て放鷹を行っていたが、偶々當社が正五位の格式社であることを知り寛文四年(一六六四)四月家臣板野・伊藤の両名を遣し、本殿拝殿の修復を行い、義公自ら茂侶社と書した扁額を献じ、水戸家より代々祭典料と営繕料が給せられた。また現在の社名額は明治拾六癸未年二月七日、明治大帝の御弟君有栖川宮一品幟仁親王の御親筆でありこの年代には社格が高木村々社となり、爾来大祭(十月十七日)の祭典は村費により賄われ、祭禮は全村挙げての盛儀となり、司祭の神官は代々友野氏が担当していた。その頃の神域参道百米に及ぶ。両側には樹齢参百年以上の老樹鬱蒼と生い茂り、昼なお暗く特に本殿裏境内には七・八百年を超す老杉数拾本が天を摩して聳え参詣者をして自ずと襟を正さしめる神威を四方に光放っていた。然るに昭和参拾八年日本住宅公団の小金原団地造成事業の施行により境内は縮少(小?)され、老樹も多く枯損し現存の老木は椎六本と参道入口に樹齢凡そ五百年の老松を残すのみとなり、神域の景観は昔日の森厳さを失うに至った。よって茲に会員一同相い議し神域を整備して、御神威の益々隆盛ならむことを祈念し奉り、併せて社史を後世に伝へるため碑に刻して永く御神徳の弥栄を希うものである。
社頭石碑より

『延喜式』神名帳記載の下総国葛餝郡・茂侶神社。千葉県内には三つの神社が論社となっております。
他の二つは、流山市三輪野山の茂侶神社船橋市東船橋の茂侶神社

一の鳥居

参道入口の岡崎型狛犬

(年代不明)
二の鳥居と社額

御神木&参道

手水舎 手水鉢

拝殿

拝殿向拝竜

社号額

本殿

先代狛犬


不明の末社。左隣の石碑に「代惣社」とあり、故○○○と3名の名前が刻んでありました。

左より粟嶋・松尾・疱瘡・稲荷大神

浅間神社 富士嶽神社・阿夫利神社 阿夫利神社

入口の石仏