弘前市桜庭 (平成21年7月21日)
東経140度20分16.88秒、北緯40度35分22.20秒に鎮座。
この神社は、岩木山の南東6km程の辺り、岩木川の左岸の高い所から川を見下ろすように、舞台の上に鎮座しております。京都清水を模して作られたといわれる舞台は深い杜に囲まれ静かに佇んでおります。
御祭神 伊弉諾神
例祭日 八月十七日
由緒
創立年月日は不詳なるも寺伝によれば、大同二年 (八〇七) 坂上田村麿の創建とも云われており、又天平三年 (七三一) 行基菩薩がこの地を巡錫し、千手観音像を刻み、大高森山の岩窟へ安置したのにはじまると伝えられている。岩屋観音の名もこれによるが、安奉した時近くの老松に牡丹のごとき白い花が咲いたので、「花咲松の観音様」と別称されたという。歴代藩主は霊場護持に関心を持ち、為信が建物を、信牧は大鳥居、信義が石段を寄進し、信政は御本尊を高森山から現在地の桜庭に移遷している。明治三年の神仏分離で御本尊の千手観音像は弘前市の陽光院へ移遷されるが、今なお、三十三観音巡りの二番札所、また子年一代の守護神として、巡礼、参拝の人々が絶えない。
青森県神社庁公式サイトより。
慶長十五年(1610)当地の給主桜庭信光は亡父信正の為に桜庭山陽光院を開山したが津軽藩二代藩主信牧公の命によって現在の弘前市西茂森に移安させられた。やがて万治元年四代信政公が観音像を旧地に祀り同三年(1660)京都清水の舞台を模して高楼を建立した。
以後当所は通称「清水の観音」として津軽一円から深く崇敬されてきたが、明治三年(1870)の神社仕分により多賀神社と改称され今日に至っている。
弘前市教育委員会
神社庁と教育委員会の由緒に相違があります。多分教育委員会は記録にある歴史を語り、神社庁は「大同二年」と言うような古代の特異年代が登場するように多分に伝説的なお話かと思われます。因みに、津軽三十三霊場に数えられる寺院・堂舎のも「延暦年中」「大同年中」あるいは「大同2年、田村麻呂建立」と伝わるのが20近くあると言われています。ま〜神社庁は寺の由緒には無関心でしょうから、どちらでも良いとは思いますが。いずれにせよ御祭神「伊弉諾神」を祀る多賀神社の歴史は明治三年以後、でも地元の人々が手を合わせるのは観音様。
参道入り口の左手の看板には、「第二番清水千手観音、かんのん様」と書いてあります。参拝者の大半は津軽三十三観音巡りの人達か、子年生まれの人達ではないかと思われます。子年の一代様は千手観音。目屋の清水観音として信仰を集めているようです。
参道入り口。左手は清水観音水舎。
清水観音水
この清水は昭和六十二年度県の名水のひとつとして認定されたものです。
清水観音の由来
四代藩主信政公が京都の清水寺を模した観音堂を建立して観音信仰の霊場となっており、本堂は津軽三十三観音の、第二番の札所となっています。
入り口左手由緒書より。
本殿(旧観音堂)の後ろに湧き水があります。そこまで行くのは大変なのでここまで引いて来ているようです。
二の鳥居と参道。左手は清水地蔵尊。
華やかな衣装をまとったお地蔵様
本殿(旧観音堂)は結構高い所にあります。簡単に行けない人の為でしょうか。入り口近くの左手にある遥拝殿。
樹間に僅かに見える本殿(旧観音堂)
参道
神門
御神馬
神門に続く石段の参道。上に見える神門に狛犬は居るようです。
多賀神社石造狛犬
狛犬とは仏教伝来と共に日本に伝えられた獅子の一種で通常口を空けた阿(雌)と口を固く閉ざした吽(雄)の一対が配される。当社の狛犬は同じく市指定文化財の弘前八幡宮及び熊野奥照神社の石造狛犬と年季も石質も形態も同一で、刻まれている字の書体まで酷似しているもので当時の文化圏を考察する上で誠に貴重なものである。
弘前市教育委員会
笏谷狛犬としては結構変っています。弘前八幡宮や熊野奥照神社の狛犬と同様、太めの体、カールした鬣、渦巻きの尻尾等。体も大きく堂々としています。拡大写真はこちら。
(寛文4年(1664)卯月吉日建立)
さらに続く参道
見上げる本殿(旧観音堂)
最後の石段
本殿(旧観音堂)正面と内部
社殿正面には「多賀神社」の社額が架かっています。
本殿(旧観音堂)に張ってある、観音霊場のお札と般若心経。
これも末社と言って良いのでしょうか。
本殿裏側の岩窟から湧き出る湧水・清水観音水
末社
忠魂碑