北方八幡宮

山口市阿知須1496-2(平成20年8月2日)

東経131度20分24.91秒、北緯34度1分4.45秒に鎮座。

この神社は、山陽本線・本由良駅の南西1.5km程の辺り、山陽本線の踏み切りを前にして鎮座しております。読みは「きたがた」と濁るようです。

主祭神:品陀和気命(応神天皇)・足仲津彦命(仲哀天皇)・気長足姫命(神功皇后)
配祀神:田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命

創祀は奈良時代の天平勝宝三年(751)、厚東氏四代武綱が宇佐八幡宮の分霊を勧請し、古尾の地に祀ったのに始まるといわれる。こののち、鎌倉時代の天福元年(1233)、大内氏十五代多々良弘貞のとき、これを南北に分神して南方を吉沢に、北方を須川村長山に移して両所に仮殿を設けた。その後、建長七年(1255)、大内氏十六代右田太郎弘家が、南方を山村(南方八幡宮 現社地・宇部市西岐波)へ、北方を須田村(現社地)へそれぞれ移し、同様な社殿を建立した。ついで、室町時代の応永十五年(1408)、社殿が悉く焼失したため、大内氏二十一代左京大夫盛見は、公文・領家・地頭に命じて、同十七年(1410)より再建に着手し、同年中に楼門を除いて総ての社殿の竣工をみた。残る楼門については、弘治三年(1557)以来、地区民が毛利氏の臣市川経好に対して行った嘆願が実り、元亀二年(1571)に至って漸く竣工したのである。その後、江戸時代の慶長十年(1605)ごろになると社殿は悉く大破し、祭礼当日には社僧人等は路地において神事を執行するほどになった。このころ連年不作つづきで、その上疫病が流行したので、氏子中は大いにこのことを恐れた。そこで一同は再建費用を勧進するとともに藩府からも援助を受けて、同十三年(1608)に宝殿の上葺、拝殿の造営を終えた。ついで、寛永七年(1630)に舞殿を、同十四年(1637)に宝殿を再建した。ただし宝殿については、元文六年(1741)、再び改築をした。明治六年(1873)郷社に列せられた。同二十一年(1888)、境内地を四段に区切り、石垣をもって整備するとともに、社殿の後方を切り開いて南北に馬場をつくった。さらに同四十年(1907)には境内外に環状の競馬場を設け、大正十一年(1922)にはこれをさらに拡張・整備した。
山口県神社庁より。

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一の鳥居。ここから境内迄は150m程でしょうか。県道と山陽本線を横切って正面に鎮座しております。

参道

山陽本線北方踏み切り

社号標と神社入り口

石段途中の狛犬。周防では珍しい笑える狛犬。拡大写真はこちら。

(大正7年(1918)10月吉日建立)

楼門

楼門前の浪速狛犬。拡大写真はこちら。

(文政11年(1828)8月吉日建立)

楼門前の玉乗り狛犬。拡大写真はこちら。

(明治10年(1877)5月建立)

楼門の彫刻

拝殿

拝殿内部

神殿狛犬

本殿

金刀比羅神社・松尾神社 若宮八幡宮・焼火神社

赤崎神社

赤崎神社を護る狛犬。拡大写真はこちら。

(明治8年(1875)8月建立)

護国神社

天満宮・八王子社・貴船神社