琴崎八幡宮

宇部市上宇部(平成20年8月2日)

東経131度16分17.09秒、北緯33度58分3.02秒に鎮座。

この神社は、山陽自動車道・宇部ICと宇部市を結ぶ、490号線の中程に八幡宮と云うバス停近くに鎮座しております。

主祭神:足仲津比古命・品田和気命・気長足比女命
配祀神:多紀理比女命・多紀都比女命・市杵島比女命

清和天皇貞観元年(859)宇佐八幡宮より、京都石清水八幡宮にご勧請の際、海上風波のため御船を宇部郷琴芝の浦に寄せられ給ひし時、神徳を景仰し社殿を建て勧請す。爾来里人の信仰日に月に厚きを加え、領主藩主の崇敬も厚く、厚東氏長門霜降山に居城するや、城南の鎮守として代々崇敬す。
七代厚東武光長門国守護職に任ぜられるや、社地を西の宮の地に移し、社殿を造営し祭事を奉仕し、尊崇最も厚く、後大内弘世長門国守護職となり、長慶天皇天授三年(1377)神託により琴崎の地に奉遷す。此れ現在の社地なり。藩主毛利氏の崇敬更に厚く正親町天皇の永禄九年(1566)社殿造営に当り、毛利元就は竺雲禅師を参拝せしめ献資す。領主福原氏代々崇敬厚く、社領を献じ東山天皇元禄十年(1697)福原広頼社殿を改造し奉る。福原越後は、常に当社に参籠して国事の遂行を祈請す。昭和十一年(1936)三月壮麗なる現社殿を新築し境内外を整備拡張す。
明治六年(1873)郷社、昭和十三年(1938)県社、昭和四十一年(1966)別表神社に加列せらる。
境内由緒書より。全文はこちら。

長慶天皇天授三年と南朝方の元号を使っています。大内氏は南朝方だったようです。

平安時代の貞観元年(859)、宇佐八幡宮より御分霊を京都石清水へ御奉遷の時、海上の風波が強きため御船を宇部郷琴芝の浦に寄せられた。同地の人々は神徳を景仰して、この地に社殿を建て御分霊を勧請した。その後里人の信仰は日に月に厚くなり、領主等の崇敬も厚く、厚東氏が長門霜降山に居城すると、城南の鎮守として代々の領主は深く崇敬した。七代厚東武光が長門国守護職に任ぜられた時、社地を西の宮の地に移して社殿を造営し、祭事を奉仕して尊崇が最も厚かった。のち、大内弘世が長門国守護職となり、南北朝時代の天授三年(1377)、神の告げにより琴崎の地に奉遷した。此れが現在の社地である。その後、藩主毛利氏の崇敬は更に厚く、室町時代の永禄九年(1566)、社殿造営に当り、毛利元就は竺雲禅師を参拝せしめ献資する。領主福原氏代々の崇敬は厚く、社領を献じたりしたが、元禄十年(1697)、広頼が社殿を改造した。幕末期の福原越後は、常に当社に参籠して国事の遂行を祈請した。昭和十一年(1936)、壮麗なる現社殿を新築し、境内の内外を整備拡張した。明治六年(1873)郷社に列し、昭和十三年(1938)県社に昇格、昭和四十一年(1966)別表神社に加列された。
山口県神社庁より。

神社入り口

参道の石段。左手の歌碑には今上天皇(昭和天皇)の御製「天地の神にぞいのるあさなぎの、海のごとくに波たたぬ世を」。

これも狛犬と言って良いのでしょうか。石段上左右に居ます。

境内入り口

境内入り口の狛犬。拡大写真はこちら。

(安政5年(1858)3月建立)

一体だけの出雲丹後

これも一体だけの狛犬

これもかなり剥落が進んだ出雲構え

拝殿

拝殿前ブロンズの狛犬。拡大写真はこちら。

(昭和31年(1956)9月建立)

本殿

宮地嶽神社

宮地嶽神社を護る狛犬。拡大写真はこちら。

琴崎稲荷神社

琴崎稲荷神社を護る狛犬。

琴崎薬神社

いぼ神社

お護りする神様はいらっしゃらないようで、定年退職されたようです。