忌宮神社

下関市長府宮の内町1-18(平成20年7月29日)

東経130度59分24秒、北緯33度59分44.8秒に鎮座。

この神社は、長府の中心に鎮座する古社です。地元では「二の宮さん」と呼ばれ親しまれているようです。長門国の国衙もちかくで、すぐ南がわが、長府惣社町となっています。

長門国二ノ宮・旧国幣社忌宮神社 由緒
忌宮神社は、第十四代仲哀天皇が九州の熊襲を平定のため御西下、この地に皇居豊浦宮を興して七年間政治を行われた旧址で、天皇が筑紫の香椎で崩御せられたのち御神霊を鎮祭す。その後聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明宮と称す三殿別立の古社(延喜式内社)であったが、中世における火災の際中殿忌宮に合祀して一殿となり、忌宮をもって総称するようになった。忌とは斎と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味である。現在の社殿は明治十年の造営で、昭和五十六年に改修す。
古来、文武の神として歴朝の尊崇篤く、安産の神として庶民の信仰を受け、長門の国二ノ宮として広く親しまれている。
境内由緒書より。全文はこちら。

神社入り口と社号標

竹ざおが多数見えますが、長府の夏の風物詩とでも呼ぶべき数方庭祭で使われる幟のようです。

第十四代仲哀天皇は、九州の熊襲の叛乱を平定のためご西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが仲哀天皇七年旧暦の七月七日に朝鮮半島の新羅国の塵輪が熊襲を煽動し豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿部高麿、助麿の兄弟まで相次いで討ち死にしたので、天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された、賊軍は色を失って退散し皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが数方庭(八月七日より十三日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられております。

神門

天気が良過ぎて、表情が良く見えませんが、小さな尻尾、真直ぐな鬣等、古い特徴を持った狛犬です。拡大写真はこちら。

(寛政7年(1795)8月建立)

拝殿

 拝殿内部

本殿

若宮社(仁徳天皇) 高良社(地主大神・武内宿祢)

境内の荒熊稲荷神社。詳細はこちら。

境内の八坂神社。詳細はこちら。