松蔭神社

萩市椿東1537(平成20年7月31日)

東経131度25分6.55秒、北緯34度24分31.22秒に鎮座。

この神社は、萩城下の東1.5kmの辺り、松本川に架かる、松本大橋を東に渡るとほぼ正面に鎮座しております。

御祭神:贈正四位吉田矩方神霊
由緒
吉田矩方は、幕末の萩藩主毛利敬親公の家臣であって、萩の松本村に生れた。松陰又は二十一回猛士と号した。松陰先生は幼時より鋭敏で秀才の誉高く、藩校明倫館で兵学を教えた。主君の面前で講義し、その名教授により賞与を賜わったこともある。成人の後、全国を遊歴して見聞を広めた。やがて、皇室の衰微していることを憂い、皇室を中心に皇国の発展を謀てた。そのため尊王攘夷の運動を展開し、知識を広めるため国禁を冒して外国への渡航を図った。この企ては失敗して投獄され、後ち許されて松下村塾で弟子達を教育した。この塾から、この後明治維新を遂行する多くの志士が輩出した。江戸時代の安政六年(1859)、安政の大獄に連座し、江戸伝馬町の獄で刑死した。松陰先生は、萩藩の維新回天の大業の先駆者であり、明治維新の先覚者であった。明治二十一年(1888)、朝廷から正四位を追贈された。明治四十年(1907)、松陰先生を敬慕する者が神社創建を出願し、同年十月に許可となり、県社に列する。
神社庁松陰神社解説より。

御祭神:贈正四位吉田寅次郎命
明治二十三年八月松下村塾出身者其他故旧の人々の協力により松下村塾改修のさい、実家杉家の私祠として村塾の西側に土蔵造りの小祠を建て神霊を鎮祀し併せて遺著遺品を収めたのがはじめである。・・・・
境内由緒書より。全文はこちら。

この地に鎮座しているのは、実家の杉家がここにあった為であるようです。杉家の家禄は26石。これでは食べてゆけず、藩に願い出て、城下よりこの松本村に移り、農業もしながら生計を立てていたと言うことです。幼い虎之助が吉田家へ養子に出されたのは貧しさもあったのでしょうか。

幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は虎之助。養子後の名字は吉田、大次郎と改める。通称吉田寅次郎。諱は矩方。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の号は寛政の三奇人の一人で尊皇家の高山彦九郎のおくり名にちなんでつけられた。また、「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることによりつけられている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より

彦九郎の諡(おくりな)は「松陰以白居士」
彦九郎の辞世「朽ち果てて身は土となり墓なくも心は国を守らんものを」
寅次郎の辞世「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置きまし大和魂」

どうでも良いことなのだが、『ウィキペディア(Wikipedia)』では本姓不明と書いてあります。しかし、東京の松陰神社では御祭神「吉田寅次郎藤原矩方命」となっています。

松陰神社公式サイトはこちら。

神社入り口と社号標

参道

拝殿

本殿

松陰神社の北側に建つ松門神社入り口。松下村塾門下生42柱が祀られています。

拝殿

ここで学んだ門下生の一人、渡邊蒿蔵が奉納した狛犬。拡大写真はこちら。

(明治41年(1908)9月建立)

松下村塾。移築ではなく元々この地に建っていたようです。

境内の歌碑「親思う心にまさる親こころ今日のおとずれ何ときくらん」。江戸伝馬町から送られた永訣の一首。