松陰神社

世田谷区若林4-35-1(平成20年6月8日)

東経139度39分33.25秒、北緯35度38分34.88秒に鎮座。

この神社は、東急世田谷線・松陰神社前駅の北300m程の辺りに鎮座しております。嘗てこの辺りは毛利藩藩主の別邸のあったところで大夫山と呼ばれていたそうです。安政六年(1859)、吉田松陰は、世に言う安政の大獄で江戸伝馬町において斬首刑。享年30。死後、隣接した小塚原回向院(荒川区)の墓地に葬られたが、高杉晋作ら攘夷派の過激志士達によりこの地に改葬された。その後長州が幕府に反旗を翻す頃には毛利家の上下屋敷は徹底的に破壊された様なので恐らくここも破壊され、草茫々の原っぱのようになってしまったと思われます。その後、明治の世となり、松陰門下の若造だった連中も明治政府のお偉方となり、今は亡き恩師や、志半ばで斃れた同士を思い、涙を流す事もあったのでしょうか。明治15年11月、師の墓の傍らに社を築いたのが、松陰神社の始まりのようです。

祭神:吉田寅次郎藤原矩方命

萩の松陰神社はこちら。

神社全景

一の鳥居と参道入り口

由緒書

参道

参道半ばに松陰先生が居られます。今は学問の神様として菅原道真公と人気を二分するか。さらに松陰のしょうは「勝」に通じるのか、受験や勝負事に御神徳絶大。だそうです。

拝殿

拝殿内部と本殿

鳥居脇に松下村塾のレプリカ

 明治十五年長州藩士吉田松陰の霊をまつる。この地は同藩主毛利大膳大夫の抱屋敷であったので俗に大夫山とよばれた。
 松陰は安政三年(1856)長州萩において松下村塾(鳥居脇にあるのはその模したもの)を開いて高杉晋作、伊藤博文ら多くの子弟を薫陶し、かれらに大きな影響をあたえたのである。
 松陰は安政大獄のときに処刑されたが、後、ひそかに頼三樹三郎らと共に、神苑の西方老松楓樹のもとに葬られた。
世田谷区教育委員会

境内松下村塾説明はこちら。

参道左手に松陰先生墓所の案内があります。参道を左に曲がり、鳥居を潜った右手奥が墓所となります。

正面が松陰先生ほか烈士の墓。日曜日のせいか、ご覧のように参拝者が絶えません。正面の鳥居は木戸孝允の寄進。「大政一新之歳、木戸大江孝允」と刻まれてる。

吉田寅次郎・小林民部・来原良蔵・頼三樹三郎・福原乙之進・綿貫治良助・長州藩邸没収事件関係者慰霊碑

徳川家奉納の水盤と石燈籠。明治の世となり長州と徳川の間で手打ちが行われたのでしょう。松陰はじめ亡くなった長州藩士の御霊に頭を下げたようです。

墓所の詳しい説明はこちら。