大野見宿弥命(おおのみのすくねのみこと)神社

鳥取市徳尾80 (平成21年7月31日)

東経134度12分18.6秒、北緯35度29分51.97秒に鎮座。

この神社は29号線・徳尾信号東80mに鎮座しています。社叢が国指定天然記念物となっており、常緑広葉樹に覆われた小山全体が素晴らしい鎮守の杜を形成しています。大樹の下、入口には鳥居が建ち、境内への参道は全て石段となっています。
境内の奥には石垣が組まれ、ここだけがやや明るく、妻入りの拝殿の後ろに幣拝殿・本殿が建立されています。

御祭神:大野見宿禰命
祭礼日:4月13日頃の日曜日
由緒:この社は戦国時代しばしば兵火により焼失し、創建は不詳となっていますが、延喜式神明帳に「因幡国50座略高草郡七座大野見宿禰命神社」とあり、又、倭名類聚抄に「因幡国高草郡野見郷」と記されている古社です。貞観、延喜よりはるか古代から信仰の対象として崇敬されていたようです。
江戸時代には池田光政公が9才にして姫路城より鳥取城へ32万石の大名として転封になった元和3年(1617)から、明和4年(1767)までに数回社殿の建造がなされています。
現在の本殿は安政5年(1858)5月に建てられたもので、幣拝殿は昭和16年に新築され今日に至っています。
御祭神の大野見宿禰命は天穂日命14世の孫で、垂仁天皇の御代(約2000年前)に出雲国より京に上がり、大和国随一の豪の者・当麻蹴速と力競べを行い、蹴速を倒し殺しました。その跡地が桜井市穴師の相撲神社となっており、日本の国技となった相撲の始まりとされています。これにより宿禰は勇力を賞され、都に留まり朝廷に仕えることになり、相撲の始祖と呼ばれる由縁となりました。
又、この時代には高貴な人が身罷れた時にはお側に仕えていたものを主人の亡骸と共に墳墓に埋める慣わしがありましたが、時の皇后・日葉酢媛命が亡くなられた時、宿禰は人・馬等の土偶を造り共に埋め、生人を埋めない事に改めるよう天皇に言上し、出雲より土師を多数呼び寄せ、種々の土偶を造りました。これが即ち、殉人の代用としての埴輪造りの始まりでした。天皇はこれを賞され宿禰に「鍛地」を与え、土師部の職を定めその長に任命されました。
これにより野見宿禰命は、相撲の守護神、土師部の始祖となりました。

社頭
入口の明神鳥居
石段の参道
境内入口
境内の様子
拝殿前、建立年代不明の出雲丹後狛犬阿は大分傷みが見えます。
狛犬の拡大写真はこちらで
拝殿 拝殿に架かる額
「式内郷社
大野見宿弥命神社」
本殿
本殿木鼻・狛犬と象