八幡大神社

三鷹市下連雀4-18-23 (平成28年11月3日)

【神社情報・来戸さんより】
中央線「三鷹」駅南口より三鷹通りを徒歩15分程の所に、通りに面し鎮座しています。私は諏訪神社より歩きました。神社に近づくと大太鼓の迫力ある音が聞こえてきました。

御朱印、当日は直書き(印刷物の日もある)でした。(日)から始まり(土)まで、(日)は天照大神、(木)は木々能知神(久久能智神、木の神)。木木(キキ・キギ)が転じて久久(クク・クグ)になったものという。
しかし(土)は土産大神、「うぶすなのおおかみ」と読ますのは苦しい。「みやげのおおかみ」と読みました。 うぶすなのおおかみ=産土大神

御祭神 応神天皇

八幡大神社御由緒
後西天皇明暦3年(1657)正月18日、江戸本郷の本妙寺から出火した火事は折からの強風で大火となり、江戸城の天守閣をはじめ外堀内堀のほとんどを焼き尽くし、死者10万人ともいわれる大災害をもたらして。「明暦の大火」俗に「振袖火事」と言い伝えられている。江戸幕府は被災地町内外の整備を計り、日除地となる地域の住民に住宅の再建を許さず、罹災者に対する対策として新田開拓農民となることを奨励代替地を供与した。
今から355年前、時に後西天皇万治元年(1658)、神田連雀町の一部住民25人衆とその家族は「茅場千町野」といわれていた現在のこの三鷹の土地を与えられ新田開拓農民となって移住してきたのである。これが今日の下連雀の始まりである。「下連雀」の地名の由来は故郷「神田連雀町」をとって名付けられ、当初「連雀新田」と称したが、寛文4年(1664)「連雀村」に改められ、更に武蔵野に新田が数多く成立するに及んだ享保年間(1716〜1736)「下連雀村」となった。
霊元天皇寛文4年(1664)、連雀村の名主松井治兵衛は村の年寄、組頭等と村つくりの精神的また地縁的中心と仰ぐ「氏神社」の御創建について相議り連署を以て幕府に請願したところ、時の老中松平伊豆守は、代官野村彦太夫に検地を命じて現在のこの社地
(約壱万坪)を除地と定め鎮守八幡大神社の創建を許可した。
こうして下連雀村の25人衆は氏神社を奉斎し、心の拠りどころとして村つくりに励んだのである。 棟札によると中御門天皇享保10年(1725)8月社殿の改築が行われ、次いで仁孝天皇弘化元年(1844)8月再建がなされた。現在の社殿は昭和天皇昭和35年(1960)8月に再建されたものである。・・・・・・・
境内由緒書き より

寛文4年(1664年) - 名主松井治兵衛と村の年寄・組頭らは、連署で神社と寺の創建について幕府に誓願。老中松平伊豆守と寺社奉行は代官に検地を命じ、社地1万坪と寺地2万坪を除地として寺社の建立を許可。築地本願寺より松之坊を迎える。後に松之坊は退転し、黄檗宗禅林寺が開かれている。
ウィキペディア より

除地、三段三畝十歩、村の西にあり、小社にて拜殿上屋造かけ、三間に三間半南向、~體馬上束帶の木像長 一尺許、前に鳥居を立、例祭八月十五日、禪林寺の持なり、
新編武蔵風土記稿>野方領>下連雀村>八幡社 より

御由緒
明暦二年六月に創立され、享保十年八月に改修がなされ、弘化元年八月に再建されている。明治六年十二月 村社に列せられた。現在の社殿は、昭和四十年九月に新築再建せられたものである。
北多摩神社誌>八幡大神社 より

一の鳥居

二の鳥居

参道

楼門

神楽殿

大太鼓

神輿庫右

獅子頭

神輿庫左

拝殿

本殿

本殿玉垣内の狛犬

裏二の鳥居&本殿裏側

町神輿庫

裏一の鳥居、左側に町神輿庫