橘稲荷神社

中央区日本橋人形町3-8-6 (平成25年7月28日&12月22日

東経139度47分08.69秒、北緯35度41分01.27秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
末広神社、三光稲荷神社を参拝する為、神社近くの地下鉄人形町駅の出入り口(A4)を出たら、歩道上!に稲荷神社が鎮座していました。写真を1枚撮りました。
後に調べたら面白い。地下鉄で浅草へ行く機会がありましたので、途中下車ならぬ行き過ぎ下車して再度撮りました。近くに玄冶店(げんやだな)の史跡があります。玄冶店といえば私が子供の頃に流行った「お富さん」という歌を思い出します。春日八郎さんのデビユー曲です。

♪ お富さん 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん エーサオー 玄冶店

お富さんの相棒は「与三郎」。そのモデルとなった四代目伊三郎の墓は千葉東金の「最福寺」のあります。

御祭神 倉稲魂大神

御由緒
このあたり江戸期には新和泉町といわれたが、将軍家御典医・岡本玄冶の邸があったことから、一帯を玄冶店と俗称した。当稲荷ははじめ御殿山にあったものが、のちに江戸城内へ移り、さらに玄冶に賜わって当地へ移された。稲荷名の橘は岡本家の姓に因んだとされる。安政6年の尾張屋清七板古地図では、現在地よりやや北側に記されている。数百年に亘り、素朴な信仰の対象として土地の人々により守り継がれて来た。特定の個人や企業の所有ではなく、町のお稲荷さんとして親しまれている。大正以降、運よく震災・戦災を免れて来たが、老朽化の為このほど地元町民多数の浄財により再建された。
橘稲荷御造営奉賛委員会掲示板 より

岡本玄冶【おかもと・げんや】
岡本玄冶(1587〜1645)は京都に生まれ、医術を曲直瀬道三(玄朔)に学びました。
元和9年(1623)、京都に上洛中の徳川家光が江戸へ帰る際に侍医として招かれ、幕府の医師となりました。後に法眼から法印に叙せられて啓迪院と号しました。
三代将軍家光は岡本玄冶を重用し、数多くの功があったことが記録に残されています。『寛政重修緒家譜』には、寛永10年(1633)、家光が大病を病んだ時、諸医術をつくしても効験がなかった病を玄冶が薬を奉り平癒したとあり、この功により白銀200枚を賜ったことが記されています。
「玄冶店跡」中央区教育委員会掲示板より抜粋

神社遠景

左側は地下鉄出入り口(A4)

社額

横より

社殿

龍と狛犬

お供え物を一時移動させて撮影した正面

左右の脇障子

石碑「玄冶店(げんやだな)」