最福寺

東金市東金1693 (平成24年12月23日)

東経140度21分48.76秒、北緯35度33分33.93秒に鎮座。

【神社情報・「狛犬小僧」さんより】
この寺の近くには幾度となく来てるが、まさか狛犬さんの居る寺だったとは知りませんでした。四代目切られ伊三郎の墓もありますよ。

由緒
東金市八鶴湖に南面してたたずむ安国山最福寺は、大同二年(八〇七)伝教大師最澄によって背後の鴇ヶ嶺山頂の山王神社(日吉神社)とともに一宇を改修し天台宗の寺院として創設されました。その後六百七十年たった文明十一年(一四七九年)京都妙満寺十世日遵上人の弘教により、日蓮宗に改宗されました。土気の酒井定隆による七里法華改宗より十一年前のことです。その数年後、最澄の最を改め最福寺から西福寺と称しましたが、戦後昔の最福寺に戻しました、また山王神社は嘉慶元年(一三八七年)現在地大宮台に遷座され鴇ヶ嶺の社は古山王神社として現在に至っております。現在最福寺は日蓮系の単立本山です。
(以上 最福寺ホームぺージより抜粋)

境内案内図等はこちら。

入口

参道の大杉

本堂と狛犬

江戸流れの変形か。拡大写真はこちら。
(年代不明)
左右の木鼻

鐘楼

切られ与三郎のモデルになった四代目伊三郎の墓
芳村伊三郎の名は、江戸長唄の名家で、現代まで襲名され続けています。
四代目伊三郎は、このお寺から南西四キロの清名幸谷の紺屋の中村家の二男として寛政十二年(1800)に生まれました。名を中村大吉といい若い頃から長唄に親しみ、その美声と男ぶりは近隣でも有名だったようです。
大吉は長じて木更津で型付職人として腕を磨き、年季が明けて清名幸谷に帰り兄の紺屋を手伝けしておりました。根が好きな長唄を唄うために家から一キロほどの東金と大網の中程の新堀の茶屋に足しげく通っておりました。そこで見そめたのが茂原生まれのきち(お富のモデル)でした。
しかし、きちには近くの堀畑の親分山本源太左衛門という旦那がいたのです。美男美女の間柄はすぐに親分に知られました。若い二人は勝手知った木更津に逃げましたが、子分達に追われ大吉は切り刻まれむしろに巻かれて海に投げ込まれました。しかし、奇跡的に江戸の漁師に助け上げられたのでした。一方きちは連れもどされ、すぐに江戸に売られてしまいました。
後年江戸へ出て唄方となった大吉は、四代目伊三郎を襲名しましたが、若い日の仕打ちで受けた顔から身体中の数十の疵が八代目団十郎の目にとまり、鶴屋南北の門下、三世瀬川如皐に伊三郎、おきちをモデルに人物名、地名などを含め、その筋書きも、おもしろおかしく善玉、悪玉を誇張して書きあげさせました。
それが「お富・与三郎」で知られる歌舞伎狂言与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)なのです。
五代目伊三郎は、東金の岩崎の秋山嘉吉さん方で、明治十五年に亡くなり、師の墓の隣りにという遺言で、葬儀も当寺で営み、過去帳にも残っております。東金のお祭りのおはやしは、この五代目の長唄の影響を受けた珍しいリズムです。
お墓は当初三十メートル先にありましたが戦前、秋の豪雨で崩れました。戦後歌舞伎役者、当市有志のきもいりで、この地点に新しく建てかえられたものです。
我が幼少の砌、ラジオで春日八郎の「お富さん」を聞かされました。当時は全く意味が分からず。恥ずかしながらこの度、初めて由来を知りました。「狛犬小僧」さん、有難う御座います。
粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん エーサオー 玄治店(げんやだな)
お話の中では[お富]が住んでいる家が[玄冶店]であったそうです。史跡「玄冶店」隣接する橘稲荷神社はこちら。