巣鴨猿田彦庚申堂

豊島区巣鴨4-35 (平成26年7月12日)

東経139度44分01.39秒、北緯35度44分09.79秒に鎮座。

【神社情報・来戸さんより】
4日は巣鴨地蔵通りの縁日、行きました。都電荒川線「庚申塚」停留場より徒歩数分の所です。境内は人が多く、写真は入口から順番には撮れず、撮れる所から撮りました。入口が最後になりました。

御祭神 地津主 甲子大己貴神・天津祖 庚申猿田彦大神・人津霊 己己少彦名神

巣鴨の中山道沿いにある庚申塚は、江戸時代から近郷近在の聞こえた名所でした。江戸と板橋宿との間にあり行き交う旅人たちで賑わっていたと伝えられ、その様子は「江戸名所図会」にも描かれています。現在では、特に庚申の日ともなると、近くの「とげぬき地蔵(高岩寺)」の縁日(毎月四の日)と同様に多くの参拝者があります。庚申塚では町内会の人達が、参拝者に対して、季節ごとに趣向をこらした食事を作ってもてなしています。
「江戸名所図会」のなかの茶屋の屋根の葦簀(よしず)の上に見える石塔は、庚申塚のいわれを裏付けるものです。現在、この石塔は小さな社に鎮座し、その銘文によれば1657(明暦三)年に造立されたものということがわかります。これより以前、1502(文亀二)年に造立されたといわれる石碑がありましたが今はなく、「遊暦雑記」では、この塚の下に埋められていると伝えたいます。
また、この庚申塚には、お猿さんが祀られているというようにいわれていますが、これは、巣鴨近辺の有志が、明治初期 千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大神を分祀したという歴史的事実によるものです。
豊島区教育委員会発行(石造文化財より)

江戸時代に書かれた紀行文の「遊歴雑記」に当庚申塚を次のように書いている。「武州豊島郡すがも庚申塚は江戸より板橋の駅に入る立場なりよしず囲いの茶店あり団子茶屋と称す。石碑を見るに明暦と彫られ、又 古老からの聞き書きとして文亀二年(一五〇二年)に塔を建立高さ八尺なり然るに明暦三年正月世にいう振袖火事の大火おこり江戸中九分通りを焼き払う、復興資材をひさくものひきもきらず、たまたま当庚申塔に立懸けたる竹木倒れ石碑四つ五つに砕けたり、故に庚申塚とてその名高し」とかかれている。
又、長谷川雪目の描いた江戸とその近郊の絵入り地誌「江戸名所図会」にはこの庚申塚に中山道の立場があり旅人が茶屋で休息している様子が描かれている。広重の浮世絵にも当地の描写があり、付近の賑いが見られる。庚申塔を神として祭ったのがいつの頃か判然としないけれども、神社としては伊勢皇大神宮の一角に大きな区画を占めて猿田彦神社があり、神宮は猿田彦の先導により開かれたと称されている。
この辺がら道祖神との関連も結びつくようである。神道による庚申信仰も相当の歴史をもって受け継がれて来たものであり、当「巣鴨猿田彦大神庚申堂」もその好例であろう。
前途のように文亀二年(一五〇二年)に建てた「庚申待供養板碑」は破損し明暦三年(一六五三年)に作り直したものが現在御本殿に祭る「庚申塔」である。戦前は町会事務所なとも合築された堂宇であったが戦災で焼失、その為この石碑の文字も判読しにくいが、江戸時代の庶民信仰と地域の歴史を知る上で大切なものとして豊島区の登録文化財にもなっている。 ところで、庶民の間に庚申講が盛んになった頃、「庚申待ち」という集まりが行われ、庚申の日に夜を待して来世の幸福を願って天帝に祈り酒食を持ち寄って賑やかに過す、という祭りが流行した、今はすたれたけれども当庚申堂のもその名残が偲ばれる。
昭和四十六年に御本堂を再建し、以後四十九年には御水舎、平成三年には山門も形を整え創荘厳さを増して、参拝の方々に喜ばれている。年に六〜七回、庚申の日はお祭りをして多くの信者を迎えている。
巣鴨猿田彦庚申堂 由来記 より

巣鴨地蔵通りに面している入口

御水屋

参道

お猿さん

本殿

神額

巣鴨地蔵通り商店街&すがもん