妙義神社

豊島区駒込3-16-16 (平成27年3月28日)

東経139度44分53.06秒、北緯35度44分06.52秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
JR駒込駅北口より出て妙義坂(本郷通りの一部)を下る途中西側に「妙義神社参道近道入口」の標識があり、その先に鎮座しています。妙義坂の名は妙義神社の名が由来。

御祭神 高御産霊神・日本武尊・神功皇后・応神天皇

御由緒
文政十一年(1828)に成立した『新編武蔵風土記稿』の記述によれば、日本武尊が東征の時にこの地に陣営をしき、のち白雉二年(651)五月に社を建てて白鳥社と号したという。これによれば、区内最古の神社ということになる。
くだって文明三年(1471)五月、足利成氏との戦いを前にした太田道灌は当社に参詣し、神馬・宝剣を捧げて戦勝を祈願した。その際、「雲払ふ 此神垣の 風の音」と連歌を詠み、この戦いでは、成氏を敗走させたという。
続いて道灌は、文明九年の豊島勘解由左衛門との戦いの際、さらに同十一年の千葉孝胤攻略の折にも戦勝祈願に当社に参詣したといわれている。こうした故事から、「勝戦(かちいくさ)の宮」とも呼ばれて信仰を集めた。その一方で、大永年間(1521〜27)には江戸城代遠山丹波守が、また永禄十二年(1569)には守護富永神四郎が当社を修理したものの、天正年間(1573〜91)に松田尾張守康秀が社領を没収したのち衰廃するなど、当社にとって戦国時代は波瀾の時期でもあった。
境内には、寛永十九年(1642)十一月に駒込村の農民によって建立された庚申塔が遺されており、当該地域の信仰の拠点となっていたことが推察される。
境内由緒書き より

上駒込村 妙義社
祭神日本武尊、左は高産霊神、右は神功皇后・応神天皇、凡四座皆白幣を神體とす、社傳曰、日本武尊東征の時此所陣営となる、後社を建て白鳥社と号す、白鳳二年官人日奉部年雄下向して祀を奉せしと云、按に【武蔵風土記】豊島郡日頭白鳥神社、白雉二年辛亥五月所祭 日本武尊也、神貢五十三束三毛田と載す、白鳳は白雉の誤にて、此風土記に掾て設し説ならん、殊に鳥越明神・妻戀稲荷も祭神日本武尊にて、白鳥神社の由傳ふれは、何れを是とも定かたし、又云文明三年五月足利成氏古河より葛西に出張して、上杉と対陣、然に上杉は鎌倉に退て長尾太田等同六月古河を攻落し、成氏千葉に奔走す、此出陣の前太田道灌当社に神馬寶劔を捧て祈念し、
雲拂ふ此神垣の風の音 道灌
草をも木をも吹しほり行 兼信
兼信は道灌か近臣樋口與三郎なり、凱旋の後社領十五貫文を寄附す其時の詩云、
秋風靡雲社前庭、一皇戎凶賊平、
月光不倣暉神武、千歯赦乎奉威明、
文明九年春道灌豊島勘解由左衛門と戦ひ、同十一年春千葉孝胤を攻の時も、当社にて牛込赤城の僧圓勧稲附普門院開山宥鎮等、怨敵降伏の法を修して合戦戦利あり、其後大永中江戸城代遠山丹波守修補す、永禄十二年武田信玄当国乱入の時守護富永神四郎財を棄て修補す、天正年中松田尾張守康秀か計として社領悉没収す、其後衰廃せしを寛永中代官野村彦太夫再建す、相殿神明宮昔の地頭今井弥平四郎茂義と云人の祀る所なり、茂義は上野の人なり、永享中に忠功ありて上杉憲実此地を與ふ、同十一年八月本国新田郷神明村の神明宮を当所新恩の地に移し祀ると云、神體天照太神荒御魂木の立像長一尺二寸八分、左に宝珠右に寶劔を持、又別に相殿一座天満宮太田道灌を祀る、神體は筑紫天拝山の青石也、長一尺余圍一尺六寸富永神四郎も崇信し、永禄中に社修造の時神明を左とし天満宮を右として祀ると云、又太田道灌の木像あり、長二寸八分束幣の姿なり元亀年中の棟札存す其図左の如し、
新編武蔵風土記稿 より

妙義坂上、背後は大國神社 参道入口の案内

神社入口

手水舎 手水鉢

拝殿

太田道灌公戦捷祈願之舊址

拝殿内部

本殿


境内

庚申塔
「新編武蔵風土記稿」妙義社の項に「末社稲荷庚申・寛永寛文庚申ノ碑ニアリ、是ヲ神体トス」とありて江戸時代には稲荷として祀られていた事がわかる。
昭和四十年(1965)神社復興工事の際、境内土中より発堀され社殿左側奥に建立されたが今回の境内整備に伴い現位置に遷された。尚寛文二年(1662)の碑は戦災で失われたと思われる。
境内案内板 より

道灌霊社

歌碑

境内の桜

御朱印