花園神社

新宿区新宿5-17-3 (平成23年4月11日)

東経139度42分30.21秒、北緯35度41分25.16秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
前年(平成22年)9月29日に屋根の銅葺き工事が終了し、神楽殿に仮住まいしていました神さまを本殿に移す「本殿遷座祭」が行われました。遷座後最初の桜ということで新宿ゴールデン街より参拝しました。ゴールデン街を見つめる狛犬の表情がすきです。

御祭神 倉稲魂命(花園神社)・日本武尊(大島神社)・受持神(雷電神社)

創建の由緒は不明であるが、徳川家康が江戸に入った1590年にはすで存在しており、大和国吉野山よりの勧請と伝えられている。その後、当地に内藤新宿が開かれるとその鎮守として祭られるようになった。
元は現在地よりも約250メートル南にあったが、寛政年間、その地を朝倉筑後守が拝領しその下屋敷の敷地内となって参拝ができなくなった。氏子がその旨を幕府に訴えて、尾張藩下屋敷の庭の一部である現在地を拝領し、そこに遷座した。そこは多くの花が咲き乱れていた花園の跡であることから「花園稲荷神社」と呼ばれるようになったと伝えられる。また、真言宗豊山派愛染院の別院・三光院の住職が別当を勤めたことから「三光院稲荷」とも、地名から「四谷追分稲荷」とも呼ばれた。
明治に入ると村社に列格したが、その際、名称は単に「稲荷神社」となった。一説には届出の際に「花園」を書き忘れたという。1916年(大正5年)1月25日に東京府知事に対し改名願を出し、同年2月26日に許可され「花園稲荷神社」に改称した。1928年(昭和3年)、現新宿4丁目にあった雷電稲荷神社(雷電神社/祭神:受持神)を合祀、郷社に昇格した1965年(昭和40年)、現在のコンクリート製の本殿に建て替えられ、その際に末社・大鳥神社(祭神:日本武尊)を本殿に合祀し、社名を「花園神社」に改めた。
ウィキペディア より

花園神社公式サイトはこちら。

明治通りに向かって立つ大鳥居

参道の桜

拝殿

本殿

神楽殿

境内の花吹雪


南参道、靖国通り側の入り口。

新宿区有形文化の唐獅子。拡大写真はこちら。
(村田整岷作 文政4年(1821)建立)

令和5年7月の狛犬。拡大写真はこちら。

参道の江戸流れ。拡大写真はこちら。
(年代不明)

裏参道、ゴールデン街側入り口。

裏参道を護る江戸尾立。拡大写真はこちら。
(延享2年(1745)乙丑正月吉日建立)

芸能浅間神社。御祭神は木花之佐久夜毘売。
江戸の昔から芝居や舞踊の興行に縁が深かったため、演劇や歌曲など芸能関係の奉納が多いことで有名。

社殿

歌碑

圭子の夢は夜ひらく
作詞 石坂まさを 作曲 曽根幸明
赤く咲くのはけしの花 白く咲くのは百合の花 どう咲きゃいいのさこの私 夢は夜ひらく
十五十六十七と 私の人生暗かった 過去はどんなに暗くとも 夢は夜ひらく

藤圭子版の作詞者・石坂まさをの作詞家生活30周年を記念し、1999年にこの曲の歌碑がここに建てられたそうです。私はこの曲しか知らないのですが、原曲は、練馬少年鑑別所で歌われていた曲を曾根幸明が採譜・補作したもので、中村泰士が作詞し、園まりが1966年ポリドールより発売された「夢は夜ひらく」のが最初ということです。ここは歌舞伎町にも近い繁華街。この辺りの夢はやはり、夜ひらくようです。因みに藤圭子の、「新宿の女」の歌碑は西向天神社にあります。

芸能人の名前が並ぶ玉垣

威徳稲荷神社。
戦災で資料が焼失したため詳細は不明ですが、昭和3年4月頃に建てられたと伝えられ、女性の参拝者に人気の高い神社です。

端正なお顔の狐様

社額

石宮


納め大明神

御神木

梅とめじろ

御朱印


「新宿ゴールデン街」
宇多田ヒカル(藤圭子の娘)のニューアルバム「DEEP RIVER」の宣伝ポスターの背景となったり、扇ひろ子「新宿ゴールデン街」、マドンナ -「Jump」のPVで使用されている。

管理人の一言。
新宿ゴールデン街と言われても東京人以外分からないと思っていましたが、疎いのは私だけだったようです。花園神社と「四季の道」と呼んでいる遊歩道の間の狭い空間に小さな飲み屋が軒を連ねている所です。いま「四季の道」と呼んでいる遊歩道は、嘗ての都電線路跡で私も学生時代通学で毎日通っておりました。しかし長ずるにおよびゴールデン街ではしご酒をする羽目に陥る我が青春でありました。やはり夢は夜ひらくようです。(悪夢かも知れませんが)

もともとは新宿駅東口にあった闇市(和田組マーケット)が起こりである。1950年ごろ東京都が駅前の闇市を撤去した際の替地として当時都電沿いの土地であった場所に移転してきた(都電の跡が現在、四季の道という遊歩道)。当時は繁華街から離れた場所であり、ほとんどの店が飲食店の名目で赤線まがいの営業をしていた。風俗営業法の許可を取らないもぐり営業のため、俗称で青線と呼ばれた。歌舞伎町付近にはこれ以外にも青線が集まっており、都内でも有数の売春街であった。
売春防止法施行(1958年)の後は飲み屋が密集する「ゴールデン街」と名を変えた。この街の店は、文壇バー、オカマバー、ボッタクリバーの3つに分類できるとも言われた。店内は3坪または4.5坪と狭く、カウンターに数人並ぶと満席になる。
文壇バーには、作家やジャーナリスト、編集者らが集まり、(全共闘世代などが)熱い議論や喧嘩を繰り広げる場所でもあり、佐木隆三や中上健次などが常連として知られた。バーが営業を始める時刻以降に行けば、誰かしら著名ライターに逢える地域でもある。
バブル経済の最盛期には地上げ屋に狙われ、放火事件などもあったが、この街に愛着を持つ者も多く、現在でも1950年代の雰囲気を残す場所として続いている。
ウィキペディア より