西向天神社

新宿区新宿6-21-1 (平成23年2月25日)

東経139度42分52.47秒、北緯35度41分35.48秒に鎮座。

【神社情報・来戸さんより】
新宿駅の北東1km程の辺り。西向天神と言う位で、台地の西外れ、小さな谷に落ち込む、その際に鎮座しております。境内前の道はどちらから来ても下り坂で、入口はやや暗い印象の神社で、男に捨てられた女が、一人泣くには相応しい所かも知れません。

御祭神 菅原道真公・稲荷大神・秋葉大神・嚴島大神
御由緒
本社は、古来より東大久保村の鎮守社であった。現在でも境内は広く、椎の木などが森をなしている。正式には大久保の天満宮と称し、菅原道真を祀った京都の北野天満宮を勧請したものである。社伝によると、安貞2年(1282)に京都栂尾の明恵上人(1173-1232)が東国に五大尊寺を開こうとして、菅原道真自作の尊像を持って下向し、翌年当地の村人と計って祠堂を建てて鎮守としたことにはじまるという。
これは伝承に近いものであるが、天正年間(1570年代)に兵火で全焼していたのを聖護院宮道晃法親王が東国下向の折に、大僧都玄信に命じて再興させたというから、同社の起源が、少なくとも中世までさかのぼることは考えられる。西向天神と通称しているのは、社伝が地形上西向きになっていることによる。さらに棗天神との俗称もあり、これは寛永年間(1630年代)に、将軍家の鷹狩りの祭に、当社が荒廃していたのを、金の棗の茶入れを下賜して、それをもって再興を促したという伝承によるものである。
文化10年(1813)に、諸国を遊歴した僧の著した「遊歴雑記」という本には、この神社が、慶安から天和頃までは、境内に桜が多く、花見の名所であったこと、ご神体の木像の天神像は長さ7、8寸の荒木の座像であったといっている。
明治5年11月に村社となり、社地は1516坪であった。境内には現在でも石造物などの文化財が多く、境内の西隅には富士塚もある。同社の別当寺は隣接する大聖院である。
新宿区の文化財より

古来より東大久保村の鎮守。安貞二年(1228年)栂尾明恵上人の勧請とされる。西向(にしむき)天神とは太宰府の方へ向かい社殿を西向きに造っているために昔から呼び慣らわされた。
東京都神社庁 都内神社の紹介 より

村の鎮守なり。棗の天神とも西向天神とも号す。安貞年中栂尾山明慧上人東国に五大尊寺を興営せんとして、菅家自作の像を懐にし、下向して先当所の郷民と議し、祠を建て鎮護神とす。其後天正の頃兵火に罹り灰燼となりし時、不思議に尊像のみ渓間の樹上にあり、郷人等奇異の思をなし、青山将監と云者と力を戮て更に経営せるもの則今の社頭なり。一年聖護院道晃法親王東国経歴の時、法印元信に命して当社の別当とし、社宇を修補して頗古に復すと云。
新編武蔵風土記稿より

神社入口

参道石段下の江戸流れ。拡大写真はこちら。
(明治14年(1881)建立)

手水舎

拝殿

社額

拝殿前の江戸尾立。拡大写真はこちら。
(宝暦12年(1762)壬午建立)

本殿


神楽殿

神輿庫

富士塚

裏参道


西向天神社の別当寺、大聖院

「新宿の女」歌碑

新宿区・西向天神社には、「新宿の女」の歌碑が存在する。この西向天神社は、藤圭子のデビュー時に「新宿の女」発売キャンペーンの出陣式を行った場所とされる。デビュー1枚目でヒットに至り、突如として歌謡界に君臨したためか、1996年夏にNHK『第28回思い出のメロディー』へ出演した際には、司会者の宮本隆治からイントロで「(当時)歌謡界に彗星のごとくあらわれ…」と紹介された。ウィキペディアより。

脇参道階段