三宿神社

世田谷区三宿2(平成20年6月8日)

東経139度40分39.03秒、北緯35度38分51.29秒に鎮座。

この神社は、多聞小学校の南100m程の辺り、三宿さくら幼稚園の西隣に鎮座しております。

この近辺には、幕末の頃まで「蛇池」とも「龍池」とも呼ばれていた池があり(北沢川と烏山川の合流点付近から目黒川大橋付近まで沼沢地帯を形成していた。近辺には「池尻村」「池沢村」と池の名がつく村があったこと、現在も、国道246号(玉川通り)北側の池尻・三宿には地形的に池のような低地部があること、その低地部の北に「池ノ上」があることからも窺い知ることができる。)、水の宿る地ということで「水宿」とついたものから転じて「三宿」となったものといわれる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より

ようするに地名を冠した神社です。創建は不明ですが明治の初めに創られたようです。明治政府の神道政策が伺える内容です。

神社入り口と社号標。左は神社名を右は御祭神です。

昔の人は「毘沙門さま」と呼んでいたようです。江戸時代三宿村の北に多聞寺という寺があり本尊は毘沙門天。しかし幕末には廃寺となっていたようです。幕府の檀家制度を換骨奪胎した明治政府の氏子制度。氏子にしたくともここ三宿には神社が無かったようです。そこで廃寺となり村の共有地となっていた多聞寺境内の毘沙門堂を神社の本殿にして、その前に拝殿や鳥居を建てて神社の体裁を整え、毘沙門天の神像をご神体としてお祀りしたのが、三宿神社です。

宮司と氏子総代四名が連名で東京府に提出した報告書が東京都の公文書館に保管されており、祭神の欄には「毘沙門天」と書かれていたのを消して、その脇に「大物主命」と書かれているようです。御祭神を訂正してしまったのです。文書を持参した者の目の前で訂正が行われたといわれています。

随分乱暴なやり方だと思いますが、恐らく似たよう事は全国至る所で行われたではないでしょうか。牛頭天王→素盞嗚命。弁財天→市杵島姫命等々。ようするに外来の神はダメ。毘沙門天も元々はヒンズーの神が仏教に取り込まれ、仏教の守護神として、日本にはるばるやって来たのです。また「多聞天」とも呼ばれます。

この神社の御祭神差替えは、経緯がはっきり判る貴重なものです。ご神体は毘沙門天。しかし戦前は大物主命。戦後の宗教法人登記簿には「倉稲魂命を奉斉し公衆礼拝施設を備え神社神道に従い・・・・」と記載されているようです。確かに境内には稲荷神社があり、三宿稲荷大明神と書かれた幟が立っています。戦後でも御祭神=毘沙門天では不都合があったのでしょうか。

運良く氏子の方が境内にいらっしゃって、由緒書を戴きました。全文はこちら。

参道。左手が社務所。右手は神輿倉。

二の鳥居と参道。嘗て神社の前は烏山川。この辺りは鬱蒼とした林だったかと思われます。

鳥居を潜ると狛犬や拝殿が見えてきます。

まるで蛙のように潰れた大きな顔の狛犬です。結構笑えます。拡大写真はこちら。

(世田谷町太子堂石工・北村花五郎 大正15年(1926)10月28日建立)

拝殿

本殿

稲荷神社。由緒書に登場する、多聞寺境内の稲荷社の後身かどうかは不明です。

社殿は米軍の空襲で焼けてしまい、昭和24年、郊外の軍需工場にあった神社の建物を譲り受け移築し再建したようです。その記念に奉納されたお狐さま。子狐の仕種が可愛い。

(昭和24年(1949)8月吉日再建記念)

御神木と神楽殿

明治政府の国家神道政策がかなり強引だったとは想像していましたが、あまりのあからさまにかえって笑えます。由緒に政府の命令でこれを創る・・・とは書かず「鎮座原因縁由不詳古老口碑無之」つまり分りません、と書いてあります。明治と言う時代が微かに想像出来ます。