三宿神社

三宿神社のこと〔平成十八年九月)
「由緒、祭神について」
 三宿神社の祭礼(例大祭)は、毎年九月の二十二、二十三日です。社前でお参りをしていると何処からかお線香の香りがします。神社なのに何故、と、まわりを見回すと東側に広い墓地があり、ちょうど秋のお彼岸でお墓参りの人が手向けたお線香の香りです。神社と墓地、不思議な取り合わせですが深い関係があるのです。
 江戸時代の新編武蔵国風土記稿には、「多聞寺という寺が三宿村の北にあり、世田谷村勝国寺の末寺で、本尊は厨子に入れられた身の丈八寸ほどの毘沙門天(ビシャモンテン)であり、また、境内には稲荷杜がある」との記載があります。この多聞寺は江戸末期には廃寺となってしまったので墓地は本寺の勝国寺に引き継がれ、現在三宿に住んでいる人の家のお墓が数多くあります。なお、多聞寺の名前は多聞小学校や多聞寺橋に残っています。
 明治の時代となり三宿村の鎮守の神社として三宿神社が創られました。廃寺となり村の共存地となっていた多聞寺境内に残っていた毘沙門堂を神社の社殿に、その前に拝殿や鳥居を建てて神社の体裁を整え、毘沙門天の神像をご神体としてお祀りしたようです。創られた年は不明ですが、十三年の迅速測図には神社の記号が現在地に記されています。宮司と氏子総代四名が連名で東京府に提出した三宿神社の現状報告書ともいえる文書が東京都の公文書館に保管されており、明治十八年六月の日付が加筆されていますが文書を整理した年月を記載したものとおもわれます。
 この文書の祭神の欄には「毘沙門天」と書かれていましたがその文字の上に・・・・と加筆され、その脇に「大物主命(オオモノヌシノミコト)」と書かれています。祭神を訂正してしまったのです。提出のため文書を持参した者の目の前で訂正が行われたといわれています。社殿には毘沙門天の神像が祀られていたため祭神として記載したのでしょう。元来、毘沙門天はインドのヒンズー教の神で、仏教にとりいれられ福徳富貴の神として、また「多聞天」とも呼ばれ、四天王のなかで北方鎮護の神といわれています。しかし、七福神のひとり毘沙門天は外来の神で、明治政府の国家神道上の日本の神ではないために訂正したと考えられます。とはいうものの、毘沙門天が祀られているわけです。昔のひとは三宿神社のことを「毘沙門さま」と呼んでいましたが、今では聞かれなくなってしまいました。現在、本社の社殿の脇に稲荷社が祀られていますが、前述の多聞寺境内の稲荷社の後身かどうかは不明です。
 明治の初めに新しく創られた三宿神社ですが、ほぼ百三十年の年月を重ねたことになります。宗教法人登記簿には「倉稲魂命〔ウガノミタマノミコト)を奉斉し公衆礼拝施設を備え神社神道に従い」と記載されています。三宿の鎮守の氏神さまとして「三宿神社の大神」、三宿の稲荷神社の大神」と崇め、各種の神事を厳粛に執行しています。
「建物、境内について」
 昭和七年に新築された本社の社殿の建物は二十年五月の空襲で焼けてしまいましたが、毘沙門天の神像は持ち出されたため無事で、現在も祀られています。神楽殿にも火がついたようですが消し止めたため一番古い建物として残っています。神楽殿の前の御影石の敷石にニケ所ひびが入っていますが、これは投下された焼夷弾によってできたものです。社務所、神輿庫には被害がありませんでしたが、老朽化したため建て替えられています。祭礼のとき巡行する大人の神輿は大正十二年に製作されたもので、九月の祭礼に浅草の神輿店から納められることになっていましたが、完成したとの連絡がありわざわざ取りに行ったため関東大震災の被害に遭わなかったそうです。震災と空襲、二度の災難を免れた縁起の良い神輿です。
 昭和八年ごろ多聞寺橋から多聞小学校正門前への切通しの道路が新しく完成しました。それによって神社の西側から北へ抜ける道路は廃止され境内となり拡張の記念碑が建っています。戦争の名残で表忠碑も建っています。また、昭和三十一年太田道灌の江戸築城五百年を記念して武者小路実篤の筆で「過去五百年之進歩道灌不知、未来五百年之進歩我等不知、石又沈黙」と刻まれた江戸城の石もあります。現在の本社の社殿は郊外の軍需工場にあった神社の建物を譲り受け昭和二十四年に移築したものです。四十二年に拝殿を新築、六十年に社務所の新築。平成十二年に稲荷社の移設、十三年に神輿庫の新築、十六年に神楽殿の屋根の葺き替えなど境内の整備が行われ、十八年には境内入口に玉垣を新設し、毘沙門天の標柱も建立しました。
「例大祭について」
 昨今、例大祭を土曜、日曜にかけて行う神社が多くなりましたが、三宿神社の場合昔から九月二十二日宵宮祭、二十三日本祭と決めて現在に至っています。二十三日は秋分の日で休日となり、誠に都合が良いわけです。本祭の日は正午から太鼓、神輿を神官が先導し、夕方までかかって三宿のまちを巡行します。夜は神楽殿で、滝の水がお酒に変わるという養老の滝の伝説に、狸が登場していろいろと活躍する筋書きのお神楽「たぬきまつり」が奉納されていましたが、神楽師の老齢化で平成十三年を最後に中止となってしまいました。「たぬき」が三宿のまちの象徴として扱われるのはこのお神楽に拠るものです。
「神事について」
 一月一日の元旦祭を初めとして、二月三日の節分には豆まきを、また、二月の二の午の日には稲荷社に赤い幟を奉納して初午祭を行っています。六月二十三日は大祓。九月二十二,二十三日は例大祭。十二月二十三日の大祓で一年が終わります。また、毎月一日には月次祭を執行しています。これらのほかに、初宮参り、七五三参りなどいろいろな祈願の神事も行っています。
以上

三宿神社の七不思議

  1. 明治時代になって創られた神社である。
    明治10年頃のことでしょうか、三宿村は戸数20軒程度の小さな村で、隣の池尻や太子堂のようにお稲荷さんや八幡さまといったような神社はありませんでし一た。三宿村にも国家神道を徹底させるための神社が必要となり、村のひとは廃寺となっていた多聞寺の境内にあった毘沙門堂を本殿、その前に拝殿や鳥居を建て三宿村の鎮守の神社である三宿神社にしてしまいました。したがって神社の隣に多聞寺の名残である古いお地蔵さまや墓地があっても不思議ではありません。
  2. 毘沙門天の神像が祀られている。
    昭和7年に新築された本殿は昭和20年5月の空襲で焼けてしまいましたが、祀られていた神像は持ち出されて無事でした。ご祭神は毘沙門天でしょうか?。宗教法人登記では倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)と記載されています。
  3. 本祭都9月23日で、ほぼ秋分の日で休日である。
    終戦までは秋分の日は「秋季皇霊祭」で休日でした。24日が秋分の日であっても23日に本祭が行われました。池尻の稲荷神社のお祭は20、21日で4日間お祭りが続きましたが今では変わってしまいました。
  4. 「きつね」がいて、「たぬき」がいた。
    本祭の夜には、滝の水がお酒に変わるという養老の滝の物語に、たぬきが登場していろいろと活躍する筋書きのお神楽たぬきまつり」が奉納されていました。残念なことに、平成11年を最後に神楽師(大森の池田社中)が後継者不在のため途絶えてしまいました。[たぬき]が三宿のまちの象徴となっているのはこのお神楽に因るものであります。
  5. 縁起のよい、厄除けのお神輿。
    大正12年のお祭に納められるよう浅草の神輿店に注文していたお神輿でしたが、お祭まで待ちきれずにわざわざ浅草まで受け取りに行ったので、9月1日の関東大震災の難を逃れました。また、昭和20年5月の空襲でも神楽殿、社務所とともに焼失をまぬかれ、縁起のよいお神輿と言われています。
  6. 昔の道路が境内になっている。
    境内の西側のマンションや公園との境は淡島へ抜ける道路でした。昭和8年ごろ多聞寺橋から多聞小学校の正門の問を、切通しの工事をして新しい道路が作られたので、以前の道路は廃道となり神社の境内に組み入れられました。
  7. 三宿神社の手締めは「十(トオ)じめ」と言いテンポが遅い。
    ひとの脈拍と同じ位のテンポで、rシャシャシャン、シャシャシャン、シャシャシャン、シャン」と合計10回手を打って締めます。

以上

東京都の公文書館に保管されている文書かと思われます。候文で、宮司で無く「祠官」、「しかん」と読むようです。また名前が読めません。確かに毘沙門天の右側に大物主神と書かれています。