江東区常盤1-1-2 (平成23年6月16日)
東経139度47分50秒、北緯35度40分50.4秒に鎮座。
【神社情報・剣貝さんより】
都営新宿線、大江戸線「森下」駅より南へ徒歩10分程の所に鎮座しています。境内では柾は確認できませんでした。直ぐ近くには芭蕉記念館分室があり隅田川が展望できます。
御祭神 宇迦魂命・応神天皇
御由緒
近年柾木稲荷が正木稲荷に改められ、祭神は宇迦魂命と応神天皇を祭り、例祭は毎年2月初午の日である。
創立は年代不詳、江戸時代古くより当社はあったようである。為永春水著「梅暦」の挿絵に当社が描かれ、奉納の織に「柾木稲荷大明神 天保五年(1834)二月初午」と書かれ名の知れた稲荷社であった。
当社は江戸切絵図「本所深川絵図」に「マサキイナリ」と記載されている。この絵図は文久二年(1862)版である。また江戸名所図会では「真先稲荷明神社」とも称されている。江戸には稲荷社もっとも多く、この絵図には著名な稲荷社だけが記されている。当社はその一つであった。
昔は柾木の大木があったので、この社名がつけられた。隅田川から小名木川へ入る目標として尊重されていた。また子供が柾木の葉を丸めてピーピー鳴らしていたのである。またその葉が腫れ物によくきいたともいわれている。その祈願には全快迄「ソバ」を断ち、全快すれば「そば」を献じて奉賽する信仰があった。
柾木(柾)はニシキギ科の常緑低木で、高さ3メートル、海岸近くに多く育ち庭木生垣になり、葉は厚く滑らか、長楕円形、六月頃淡緑色の四弁花をたくさんつける。実は球形、開いて赤色の種子をだす。
小名木川の水路は行徳(千葉)の塩を直線コースで江戸に運ぶため天正十八年(1580)水路が開かれ、江戸が世界一の人口になるにつれ重要な河川となり、寛永六年(1629)現在の河幅に開さくされ、船舶取り締まりのため当社の隣に船番所が設置された。寛文元年(1661)船番所は大島九丁目の小名木川と中川の交差する堤所に明治維新まで置かれた。
また当所の近くに芭蕉庵があって大正十年十一月東京府が蕉翁古池の跡とし旧跡に指定した。しかし昭和五十六年この旧跡は芭蕉記念館に移転した。
江東区の地図にも当社は記載されており、昔より町内持(維持経営)である。
境内石碑 より
かつて深川元町万年橋北側に柾木の大樹あり。その樹にほど近い隅田川の中洲上に当社「正一位稲荷大明神」存す。
時の移る中、大樹朽ち、当社も幾多の変遷を経るが、当社古くから「腫物に効くおできの神様」との名高く、寛政十年、明和六年の文記にも当社の名が見られ、文政十年六月十六日には曲亭馬琴の妻女お百も「腫物平癒」の願かけに参詣の記録あり。昭和初期の祭礼には下町情緒豊かに、花柳界の「キレイドコロ」が人力車を連ね大変賑わっていた。
ぴいぴいも売れる柾木の御縁日
陸奥米の籾の間に稲の神
柾木のぴいぴい吹きながら野掛也
と当社を読む(詠む?)句も残っている。・・・・・・以下省略
境内石碑 より
神社全景。幟には「おできの神様」。
神社正面
お狐様 | |
社号標 | 芭蕉稲荷前より正木稲荷 |
芭蕉記念館分室入口
芭蕉像と墨田川、左側は小名木川
ここの芭蕉像17時になると90度動くそうです。夕方の隅田川をながめている。
亀有公園前派出所「激走!奥の細道」 より
芭蕉記念館で絵葉書買った時確認すれば良かった!「これほんとに動くのですか?」
絵葉書:絵・沖山潤
墨田川と清洲橋
柾の葉と花(ウィキペディアより)
近くに咲いていた時計草