熊野神社

板橋区志村2-16-2 (平成22年1月8日)

東経139度41分24.7秒、北緯35度46分22.3秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
 この神社、神社庁の紹介では駅より徒歩3分となっていますが、それは神社への坂の入り口までの時間。坂を上りきって隣接のマンションを見ますと、7階まで上ったのと同じであることが分かります。
 通称城山熊野神社と言われるよう志村城跡に鎮座しています。入り口に「志村城跡」の石碑があります。

御祭神:伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなぎのみこと)・事解男命(ことさかおのみこと)
御由緒
当社は長久三年(1042年)志村将監が紀州熊野より勧請したと伝える。天喜年間源頼義と義家が奥州追討のおり、武運を祈り境内に八幡社を祀る。大正十三年に郷社に昇格し、志村七ヶ村の総鎮守として、近郷住民の崇敬をあつめてきた。
東京都神社庁公式サイトより。

『何故、千葉宗家の城が東京に』 (「志村城跡の解説版」の解説)
 康生元年(1455)、千葉一族の馬加康胤は、本家である千葉胤直を亥鼻城に攻めた。抵抗しきれなくなった千葉胤直・胤宣の父子は、千葉県多古町の多古城・志摩城で籠城したが、結局、城は落ちて、自害した。
 その時、まだ子供であった実胤・自胤(千葉胤直の弟千葉胤賢の子供達、子供達を逃したのち胤賢は自害している)兄弟はかろうじて城を脱出、武蔵に逃げ込み、太田道灌を頼っていくことになる。千葉氏の本家筋の子を保護することは戦略的に意味があったものであろう。道灌は二人を保護してそれぞれに城を与えた。
 兄の実胤は石浜城主となり、弟の自胤が赤塚城主となった。この自胤は千葉一族の本家筋に当たる人物であるから、赤塚城は東京にありながら、千葉一族の居城となったのである。(余湖くんのホームページ より ( )内剣貝が補足)
この赤塚城の出城が志村城になる。兄の実胤は赤塚城主、弟の自胤が石浜城主という逆の説もあります。荒川区・石浜神社参照。

神社入り口

志村城跡の碑

参道。左は志村小学校。右は城山幼稚園。

境内

境内入り口の江戸狛犬。拡大写真はこちら。

拝殿

本殿

末社

招魂社

絵馬堂

絵馬。神功皇后三韓征伐のようです。左が神功皇后。右が武内宿禰か。

神楽殿

宮神輿庫

手水舎