保木間氷川神社

足立区西保木間1-11-4 (平成26年3月11日)

東経139度48分08.20秒、北緯35度47分35.34秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
東武伊勢崎線「竹ノ塚」駅より東へ徒歩10数分の所に鎮座しています。

御祭神 主祭神:須佐之男命
      合祭神:豊受姫之命・菅原道真霊神

御由緒
祭神として、須佐之男命・豊受姫命・菅原道真を祀る。当社の創建は明らかではないが、中世この地は関東の豪族千葉氏の陣屋跡と伝えられ妙見社が祀られ、のち天神を祀る菅原神社となった。それ故に隣接の天神社別当寺宝積院は、その山号を北斗山と称するという。江戸時代、保木間・竹塚・伊興三村の鎮守は、もと伊興氷川社で、明治の初め当社もそこに合祀されたが、明治五年分離して、社名を氷川神社と改め保木間村の鎮守となった。この地域一帯は、伊興地区についで早く開け、平安期末から鎌倉期にかけて発展した。保木間の地名は、平安期末に西国の武士が木の柵を設け、田畑を起こしたことによると伝えている。またこの地域では、古墳時代の土師器や鎌倉期以降の板碑などが多く出土している。
足立区教育委員会

「田中正造と保木間の誓い」
1890年代に発生した足尾銅山鉱毒事件は近代史上で特筆される公害事件である。1898年(明治31)9月群馬県邑楽郡・栃木県安蘇郡等の被害住民3000人が鉱毒被害を訴えるため上京した。被害問題に取り組んだ田中正造(当時衆議院議員)は、同年9月28日、上京する被害住民とここ保木間氷川神社で出会い、鉱毒問題の解決に努力するという演説を行い、被害住民を帰郷に導いた。この時被害住民は涙して演説を聞いたといい、これを保木間の誓いという。当時東京府南足立郡淵江村だったこの地では、村長坂田正助と村会議員が、上京途中憲兵や騎馬警官による阻止・排除を受けた被害住民に、炊き出しを行って出迎え、被害住民と共に正造の演説を聞いた(「田中正造日記」)。こうした被害住民への支援は渕江村の人々と被害住民の農民同士の連帯感によって支えられていたという。 足立区教育委員会 原文はこちら。

田中正造を祀る栃木市藤岡町の田中霊祠はこちら。

入口

社号標

二の鳥居

神楽殿 手水舎

狛犬&拝殿

神額

黒い肌に赤い口、かなり異相な狛犬です。拡大写真はこちら。
(年代不明)

本殿


保木間稲荷

天宇須女尊(天宇受売命)。

「天宇須女尊 (天宇受売命 ・あめのうずめのみこと) 縁起」
日本神話の最高神「天照大御神」弟神・「須佐之男命(すさのおのみこと)」の乱暴狼藉に驚き岩屋の中に隠れることから始まる「天の岩戸神話」。この世を照らす「天照大御神」が岩戸に隠れ、堅く戸を閉ざしたため世界には闇夜が広がった。そのため善神は影をひそめ、悪神がはびこり不幸や災害が続々と発生した。困った神々は相談し、まずはじめに「常世(よこと)の長鳴き鳥(ながなきどり)」を沢山集め、一斉に鳴かせた。ある神は光り輝く「八咫鏡(やたのかがみ)」を造り岩屋を照らした。またある神は「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」を作って大榊の枝に飾り立て、ゆらりと揺すり妙なる音を奏でたりした。魅力的な美声で面白おかしく「祝詞(のりと)」を述べる神もいた。しかし、どれも効果がなかった。このとき、薄衣をまとった女神「天宇須女尊 (天宇受売命)」が突然岩屋の前に進み出て、大きな桶を伏せてその上に乗るや、胸を露わにし足を踏み鳴らして面白おかしく、一心不乱に踊り狂った。事態の成り行きを見守っていた八百万の神々もこれを見て笑い転げ、岩戸を少し開け「皆はなぜ、楽しそうに笑っているのか」と尋ねた。「天照大御神様よりすぐれた神がそこにいらしゃるからです」と「天宇須女尊」は答えた。神が差し出した「八咫鏡」に「天照大御神」はまじまじと視線をいざなった。その鏡に映った自らの姿を見て、「天照大御神」は、岩屋から思わず身を乗り出した。すかさず、怪力無双の「天手力男命(あめのたじからおのみこと」が力まかせに岩戸をこじ開けた。神々は急いで「天照大御神」を岩屋から引き出し、しめ縄を張り、岩戸を封印した。悪神は去り、世界に光が戻り、平和で静かな世界が戻った。(磐戸の舞・太々神楽より引用抜粋)
お手柄の「天宇須女尊」は神々から喝さいを浴び、祝福された。以来芸能 ・習い事及び水商売の神として広く信
仰を集めている。特に芸能関係や婦人病にも御利益があるといわれている。以下省略  原文はこちら。

榛名神社