多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社

名西郡石井町浦庄諏訪213-1 (平成25年1月7日)

東経134度24分51.06秒、北緯34度04分08.67秒に鎮座。

この神社は、JR徳島線・下浦駅の北西1km程の辺り、浦庄諏訪の街中、と言っても半分は田園風景のような、そんな長閑な雰囲気の中に鎮座しております。

御祭神 建御名方神・八坂刀売神

旧社格 式内郷社・延喜式内社

由緒
我等の聖地「諏訪」其の中央に鎮座まします御祭神の建御名方神は、大国主神(大国さま)の御子神で八重事代主神(えびすさま)は御兄神に当たる。御鎮座の年代について今から約千年前延喜式の神名帳にその名が有り、少なくとも千数百年以上前っと言われており、わが国最古の神社の一つに数えることが出来る。又、長野県諏訪市に有る諏訪大社は(宝亀十年(779))阿波から移遷されたとの説もありこれをうらづける説として、
武勇秀でたれば天照大神に豊葦原中国を奉ることを拒み戦ひて長野県信濃國に至り戦利あらず彼地にて崩御、則信濃國諏訪神社尊を奉祀せる官幣大社なり、我諏訪は蓋し尊の御住居地なるか、
一説に尊の戦ひの初めは出雲に近き阿波國の諏訪にて信濃は最後の地なりと有り。更に農耕生産、開運招福、特に武将から勝負の神様として称され戦前戦中氏子が出征する際にはこの神社に武運長久を願ったものである。更に古くは徳島市左古町の山上に諏訪神社あり、これは藩主蜂須賀公が毎年大祭に徳島城より参詣せしが秋季鮎喰川出水の為困難なるにより当社の分霊を此の地に移し佐古の諏訪神社を創立せり。殊に寛文年間(1661〜1673)第四世光隆君疱瘡にかかられし際当社に御祈願あり、奇瑞著しかりし事との説が有る。いずれにしても古き時代より氏子は基より、全国の信仰者等多くの参拝の絶えない尊い神社と言われいる。
境内由緒書き より

参道入口、手前の御旅所には神紋の鎌紋と思われます。

一の鳥居 神額

参道

境内入口と二の鳥居

社号表
「諏訪本宮」と書かれています。
社伝によれば、信濃國諏訪大社は、宝亀10年(779)、
当社から移遷されたものだという。
四国人でない我々は始めて知りました。
左右の門守神
(天明3年(1783)癸卯9月10日建立)

拝殿。注連柱に架かる注連縄の中央にも鎌紋が見えます。

左近の桜・右近の橘
拝殿前の浪速狛犬。拡大写真はこちら。
(文政11年(1828)戊子9月祭日建立)

本殿覆屋

本殿


末社 社日

石祠

御神木の椋、推定樹齢700年。

祭神の建御名方神が国譲りの際に健御雷神と争った時の力競石。