日光東照宮

日光市山内2301(平成19年8月24日)

入口から陽明門まで

 この社については此処で詳しい解説をしなくても、日本人なら、いえ外国人にも親しまれているかなり知名度の高い神社ですから、ざっとおさらい程度の記述と致します。
 戦国の世から天下統一を果たした徳川家康公は慶長8年(1603)、征夷大将軍に任ぜられ江戸に徳川幕府を開きます。秀忠公に2代将軍の座を譲ってからも大御所として天下に睨みをきかし、自分の死後について重要な遺言を残しました。「遺体は久能山(静岡)におさめ、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」
 元和2年(1616)、家康公は駿府(静岡)で75歳の生涯を閉じました。翌年、日光に社殿が造営され、朝廷から東照大権現の神号が贈られ、遺言どおり、神として祀られたのです。日光は江戸のほぼ真北にあたり、家康公は不動の北極星の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのです。
 家康公が望んだ「小さな堂」は、やがて家康公を敬愛する3代将軍家光公によって、絢爛豪華な「平和のシンボル」に生まれ変わりました。現存する建物のほとんどは、「寛永の大造替」で建て替えられたものです。造替の総奉行・秋元但馬守が幕府に提出した収支報告書『日光山東照大権現様御造営御目録』(通称『御造営帳』)によると、総工費は金56万8000両、銀100貫匁、米1000石。現代の400億円に相当する金額だそうです。使った材木が14万本、工期は1年5ヶ月、延ベ454万人が携わりました。35棟を建て替え・新築した大工事は寛永13(1636)年に完成して現在に至りました。
 現在の国指定文化財(国宝、重文)の建造物は、その時建立された本殿や陽明門など35棟を中心にその前後に建立されたものや、大名の奉納による五重塔や石鳥居など55棟になります。(指定では国宝8、重文34)。
 さらに、平成11年(1999)には、ユネスコの世界遺産条約に基づき「世界遺産」に登録されました。
 観光地というか、人混みが苦手な私達ですが、朝8時の開門と同時に参拝を始めたので、そんなに混雑はしていなくて、落ち着いた雰囲気の東照宮を堪能する事が出来ました。

 主祭神:徳川家康公、相殿御祭神:豊臣秀吉公・源頼朝公
 例祭日:1月・歳旦祭、2月・節分祭、建国記念祭、祈年祭、3月・献穀講大祭、4月・神田祭、5月・栗石返・春季例大祭(17日)、流鏑馬神事(17日)、渡御祭「百者揃千人武者行列」(18日)、6月・大祓式、10月・流鏑馬神事(16日)、秋季大祭(17日)、渡御祭「百者揃千人武者行列」(17日)、11月・新嘗祭、12月・天皇誕生日当日祭、御煤払祭、献樂祭、大祓式、除夜祭
(日光観光協会・日光パーフェクトガイド参照)

神社入口
一の大鳥居
高さ9m、柱周り3.6m、柱の間隔が6.8mの石造り(花崗岩)の鳥居です。元和4年(1618)黒田筑前守長政が奉納しました。江戸時代に作られた石造りの鳥居としては日本最大で、後水尾天皇が書いたと言われる「東照大権現」の額の大きさは、畳一畳ほどの大きさだといいます。
京都八坂神社、鎌倉八幡宮とあわせて、日本三大石鳥居と呼ばれています。
社号標
五重塔(大日如来像を安置)
若狭(福井県)の小浜藩主、酒井忠勝の寄進で慶安3(1650)年に建立されましたが、文化12(1815)年に焼失し、3年後の文政元(1818)年に忠勝の子孫、忠進によって再建されました。高さは約36mで、初層から4層までは屋根の垂木がまっすぐ平行の和様、5層は垂木が扇の骨のように放射状で曲線の唐様になっています。初層では十二支の動物彫刻で方角を表しています。
ご神木
表門
東照宮入り口の第一の門で、正面左右に仁王像を安置しているので、昔は仁王門と呼ばれていました。明治4年実施の神仏分離で仁王像は一時期大猷院の仁王門に移され、それ以来門の名称も表門と呼ばれるようになりましたが、明治30年仁王像は戻されました。
表門表面・金剛力士(仁王)像
表門長押上の狛犬四態
表門の木鼻・象
表門前面
脇柱の木鼻・獏
表門背面
脇柱の木鼻・獏
表門背面・木製神門狛犬
左・上神庫、右・中神庫
表奈良の正倉院に代表される校倉造りを模した建物で、春秋の渡御祭(百物揃千人行列)の1200人分の装束や流鏑馬の道具などが収蔵されています。手前右に下神庫もあります。
帰りがけに御神馬が寝所から神厩に移動する場面に遭遇しました。とても綺麗で優しそうな白馬でした。ラッキー!
この神馬は午前10時から午後2時まで神厩に居るようで、雨や雪の日はお休み。雄の白馬が御神馬となれる条件だそうで、現在2頭が飼育されているそうです。
神厩(神馬を入れる厩舎)
境内唯一の素木造りの建物で、此処に有名な三猿彫刻があります。
神厩正面の猿の彫刻
何故か「見ザル・聞かザル・言わザル」の三猿だけが有名ですが、此処には8画面の猿の彫刻が施され、それらは昔から 猿は馬を病気から守るとされたため、猿の一生を描きながら 「人の生き方」 を伝えているのだそうです。(これらの写真の他に脇に三画面あります)
手水舎
境内に手水舎として独立した建物を構えたのは、東照宮の御水舎が最初といわれています。九州鍋島藩主が元和4(1618)年に奉納したもので、刳り抜いた15cmの穴から、サイフォンの原理で水が噴き上がる仕組みになっています。
日本で最初に造られた唐銅鳥居
高さは6mで、3代将軍・家光公が金二千両を費やして建立しました。柱の足元には、神社としては珍しい仏教様式の蓮の花弁が刻まれています。
輪蔵(経蔵)
2層屋根で建物の形が12m四方の正方形をしているので、重層方形造りといいます。仏教の経典を納める経蔵ですが、建物の真ん中に一切経1456部、6325巻を納めた8角形の回転式の書架が置かれていることから輪蔵の名がつきました。
陽明門下、南蛮鉄燈篭
伊達政宗公の奉納でポルトガルから鉄を運んで鋳造したもので、境内燈篭の中で最も有名なものです。
飛び越えの獅子
陽明門への石段を上がった左右の玉垣に、前脚だけで逆立ちした狛犬がいます。石段を勢いよく駆け上がり、玉垣を飛び越えて着地した瞬間のポーズに見えることから「飛び越えの獅子」と呼ばれています。単なる装飾ではなく、石柵が倒れるのを防ぐ控柱の役目も兼ねているのだそうです。狛犬と玉垣は一体で、ひとつの石で彫り抜いてあります。備前(岡山県)産の花崗岩を、荷車の上で粗削りしながら日光まで運んだという伝承があるそうです。
狛犬の拡大写真はこちらで
鼓楼
陽明門の前に並ぶ高さ12.6mの太鼓を納める建物・鼓楼です。
本地堂
鼓楼の後ろにあり本尊が薬師如来であることから「薬師堂」、また乱世を鎮めた家康公が薬師如来の生まれ変わりと考えられたので、本来の仏(本地)を祀ったことから「本地堂」と呼ばれます。
 本地堂(薬師堂)の内陣天井に描かれているのが有名な鳴竜で、竜の頭の下で拍子木を打つと天井と床が共鳴して鈴のような鳴き声が聞こえます。
回転燈籠
寛永20年(1643)オランダから奉納されたもので、中心に軸柱があり自由に回転する上部に飾られた葵の紋が全部逆さになっていて逆紋の廻り燈篭ともいわれています。
釣燈籠
寛永13年(1636)、オランダから奉納されたもので、ローソクの火をつけると自然回転するので、回転燈籠とも言われています。
陽明門と回廊前の様子
右側手前が鼓楼、奥が鐘楼
陽明門に続く回廊
装飾彫刻が隙間もないほどに埋め尽くしています。
国宝・陽明門
日光東照宮の建物を代表する陽明門は、高さ11.1mの2層造り、正面の長さが7m、奥行きが4.4m。胡粉を塗った12本の柱には、グリ紋と呼ばれる渦巻状の地紋が彫られています。有名な「魔除けの逆柱」は、門を潜り終わる左側の柱。グリ紋の向きがこの柱だけ上下逆になっています。
御所十二門の内の名称を朝廷から賜ったもので、後水尾天皇の御宸筆による「東照大権現」の勅額があるので勅額門、装飾彫刻が500余りもあり1日中見て居ても決して飽きないというところから、日暮門ともいわれています。また陽明門より奥は明治維新まで庶民は入ることができませんでした。
陽明門脇の回廊表側にいた胡粉塗りの狛犬達
楽しげで伸びやかな感じの狛犬が遊び戯れています。

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