三熊野神社
掛川市西大渕5631-1(平成19年11月24日)
東経137度59分11.09秒、北緯34度40分43.27秒に鎮座。
この神社は横須賀高の東約200mに鎮座しています。背後をこんもりとした鎮守の杜に護られ、明るく清々しい雰囲気の漂う神社でした。まだ新しいけれど荘厳な拝殿と、立川流の彫刻師が精魂込めて彫り上げた素晴らしい彫刻類が拝見できる華麗な本殿、神社造営の際奉納された宝永7年(1710)生まれの、素朴だけれど威厳の漂う狛犬等見どころ沢山の神社です。
御祭神:伊邪那美命、速玉男命、事解男命
例祭日:大祭・4月第一土・日曜日、中祭・10月8・9日
境内社:諏訪神社、天神社、奥野神社
由緒:社伝によれば、大宝元年(701)、文武天皇の勅願により紀州熊野三社を勧請しました。
藤原鎌足の孫(藤原不比等の娘)宮子は、文武天皇の后になられ、「安産で皇子誕生したら、東に3つのお社を建てます。」と熊野神社に祈願しました。その望みがかない、首皇子(後の聖武天皇)を安産され、「治安がよく貢物をきちんと納める遠江国が最適。」と勅命により、司官奥野左衛門惟吉を遣わし、宮地を探させました。
惟吉は、この地が本宮に最適であると決め、本宮(三熊野神社)をこの地に、12km先の高松に新宮(高松神社)を、北の小笠山に那智(小笠神社)の宮地を定め、社殿が建てられた後は、3社の宮司に任命されました。
熊野の神々は、若一王子・千勝・布留楠・若宮・今駒の5柱の神々に伴われて、大宝元年(701)8月4日、雨垂の浜に着かれ、翌日、仮殿に入られ、社殿が建てられると、そちらに遷られたそうです。
その後は戦国時代に焼失後、天正年間に初代横須賀城主・大須賀康高が再建しました。現在の本殿は安政2年(1855)の造営です。
毎年4月第一土・日曜日にかけて行われる大祭は起源が元禄9年(1696)まで遡り、文化文政期頃の江戸天下祭の祭文化を伝承している華やかなお祭りで、御輿の御渡とお供に従う華麗な13台の祢里(ねり)の曳き廻しが、遠州に春を告げる大祭として有名なようです。
因みに遠州の熊野三山を纏めると
|
|
住所 |
御祭神 |
本宮 |
三熊野神社 |
掛川市西大渕 |
伊邪那美命 |
速玉男命 |
事解男命 |
新宮 |
高松神社 |
御前崎市門屋 |
伊弉冊尊 |
速玉男命 |
事解男命 |
那智 |
小笠神社 |
掛川市入山瀬 |
事解男尊 |
伊弉册尊 |
速玉男尊 |
神社入口 |
|
拝殿前、建立年代不明の岡崎現代型狛犬 |
|
|
拝殿 |
|
拝殿内の様子 |
拝殿唐破風下の鳥 |
|
|
拝殿正面の波間に鳥の彫刻 |
|
拝殿の木鼻・狛犬と象 |
|
|
この狛犬は、宝永7年(1710)の社殿造営の際、奉納されたもので、奉納年と奉納者名が背中に刻まれています。安山岩製のはじめに近いタイプで、潰れ顔、線書きに近いストレートヘアー、お腹の下は刳り抜かれていますが、尾は背中に張り付いています。小顔で全体にどっしりと落ち着いていますが、正面から見た顔が可愛いですね。 |
|
|
|
|
(延宝7年(1679)建立) |
県指定文化財・立川昌敬が建立した本殿
流石立川流の彫刻師、彫刻類が見事です。 |
|
本殿の木鼻・狛犬と象 |
|
|
左右虹梁外側
今にも波間から龍が飛び出してきそうです。 |
|
|
左右虹梁内側 |
|
|
本殿脇には先代の木鼻が置かれていました。 |
|
|
本殿脇には旧社殿の鬼瓦などが展示されて居ます。 |
|
とてもユーモラスなこの子達も、かっては屋根の上でお役目を果たしていたのでしょう。 |
|
|
筆塚 |
境内社・諏訪神社 |
|
|
境内社・天神社、奥野神社入口 |
|
境内社・天神社 |
境内社・奥野神社 |
|
|