伊能忠敬の略年譜

       2003-10-11改訂
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伊能忠敬の地図と資料 伊能忠敬研究会資料室

年号西暦年齢伊能忠敬に関する事項      ( 月日は旧暦 )参考事項
延享 21745   0忠敬上総国山辺郡小関村(現九十九里町)に生る。
幼名 小関三治郎。
父貞恒は神保家より小関家への婿養子。
宝暦元1751   6母小関ミネと死去。父貞恒は離縁して実家神保家(現横芝町)へ戻る。
三治郎は小関家に残る。
 
”  51755  10 父神保貞恒のもとに引き取られる。   
”  6  1756 11    間重富生る。
” 12  1762 17 忠敬と改名。
佐原村伊能家のミチの婿養子となる。通称 三郎右衛門
 
” 13  1763 18 長女イネ生る。
ミチの先夫の子、忠孝死去。
  
明和元  1764 19  高橋至時生る。
”  3  1766 21 長男景敬生る。
佐原村凶作のため窮民を救助。 
   
”  6  1769 24 次女シノ生る。
佐原村牛頭天王祭での紛争を解決。
   
安永 3  1774 29 養母タミ死去。佐原村「河岸1件」をまとめる。   
”  4  1775 30  間宮林蔵生る。
長久保赤水「日本與地路程全図」を改訂。
”  7  1778 33 妻ミチを伴い奧州松島に旅行。「奧州紀行」を書く。 佐原村、天領から津田氏の知行所となる。
天明元  1781 36 佐原村本宿組名主となる。   
” 2  1782 37 実父神保貞恒死去。幕府、浅草に天文台を移設。
” 3  1783 38 妻ミチ死去。
利根川洪水で凶作。利根川堤防修理に活躍。
津田氏より苗字帯刀を許される。
浅間山大噴火。
” 4 1784 39 本宿組名主をやめ、村方後見となる。  
” 5 1785 40  高橋景保生る。
松平定信老中首座となる。
” 6 1786 41 次男秀蔵生る(庶出)。母は法名妙諦。
大凶作、翌年に掛け多数の窮民を助ける。
  
” 8 1788 43 三男順治生る(庶出)。
次女シノ死去。
  
寛政元 1789 44 三女琴生る(庶出)。老中松平定信、寛政改革を始める。
フランス革命起こる。
ワシントンが初代大統領となる。
” 2 1790 45 妙諦死去(26才)。
仙台藩医桑原隆朝の長女ノブを三度目の妻に迎える。
地頭津田氏に引退を願うが許されず。
  
” 4 1792 47 津田氏より三人扶持を与えられる。幕府、林子平を罰し、「海国兵談」を絶版にする。
司馬江漢「地球全図」作成
ロシアの使節、根室へ来て通商を求める。
” 5 1793 48 久保木清淵らと共に関西旅行。「旅行記」を書く。  
” 6 1794 49 隠居して、家督を長男景敬に譲る。
通称を勘解由と改める。
三男順治死去。
  
” 7 1795 50 妻ノブ死去。江戸へ出て、深川黒江町に住む。
高橋至時の弟子となる。
高橋至時天文方となる。
間重富も暦局に入る。
” 10 1798 53 エイを内縁の妻とする。宝暦暦を廃し、寛政暦を用う。
近藤重蔵エトロフ島探検。
” 11 1799 54   幕府、蝦夷地を直轄地とする。
堀田仁助、奥州東海岸・蝦夷地南岸を略測。
麻田剛立死去(65才)。
” 12 1800 55 {第一次測量}閏4月から10月にかけ奥州街道、蝦夷地を測量して実測図を作る。
12月、大図21葉、小図1葉、上呈。
(第1次と第2次は補助事業で2,3割の手当であった。)
   
享和元 1801 56 幕府より苗字帯刀を許される。
{第二次測量}4月出立、伊豆から陸奥東海岸と奥州街道を測量。12月江戸に戻る。
長久保赤水死去(84才)。
” 2 1802 57 2月前年測量の地図上呈。
子午線1度の長さを二八・二里と算出。
{第三次測量}6月出立、出羽街道、越後街道など測量。10月江戸に戻る。
(幕府の公用事業となり、無賃の人馬を利用できるようになる。)
  
” 3 1803 58 {第四次測量}2月出立、駿河、尾張、北陸海岸、能登半島、糸魚川、佐渡に渡り、三国峠を経て10月江戸に戻る。
糸魚川で事件起こり、勘定奉行に訴えられる。
高橋至時「ラランデ暦書管見」を作る。
文化元 1804 59 8月日本東半部沿海実測図作成して幕府に上呈し、将軍家斉の上覧を受ける。
その見事な出来ばえにより幕吏に登用され、高橋景保の手附きとなる。
以後は幕府の事業として、西日本の測量を命ぜられる。
高橋至時死去(40才)。
高橋景保、天文方となる。間重富、景保の後見役として江戸に出府。
この頃、ロシア船頻りに蝦夷地に来る。
” 2 1805 60 {第五次測量}2月出発。東海道、紀州沿岸、大阪、京都、琵琶湖一周、山陽道を岡山へ12月到着、越年。  
” 3 1806 61 1月岡山を発ち、山陽道と瀬戸内の島々を測量し、赤間関に至り、更に山陰海岸、隠岐島、若狭湾、東海道を東進、11月江戸に戻る。2年越しの{第五次測量}終わる。
忠敬は4月末より病気となり、移動しながら療養をする。
孫、三治郎(忠誨)生る。
  
” 4 1807 62 第五次測量地域の地図を作り、12月上呈。  
” 5 1808 63 {第六次測量}1月出立、淡路島、四国の海岸線、伊勢街道を測量、伊勢山田で越年。間宮林蔵と松田伝十郎、カラフト探検。
” 6 1809 64 1月江戸に帰着。前年測量地域の地図を作り、7月上呈。
{第七次測量}8月出立、中山道、山陽道、豊前小倉で越年。 
間宮林蔵カラフトが島であることを確認。
” 7 1810 65 豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、肥後の海岸、大分で越年。
長女イネの夫盛右衛門死去。イネは仏門に入り、妙薫と改める。 
間宮林蔵「東韃紀行」を書く。
” 8 1811 66 中国地方の主な街道、美濃、三河、甲州街道を測量し5月江戸に戻る。
3年越しの{第七次測量}終わり、11月九州の大図21葉など上呈。
{第八次測量}11月再び九州に向かい、摂津郡山にて越年。
間宮林蔵、忠敬宅に住み込み測量術を学ぶ。
” 9 1812 67 九州に渡り、屋久島、種子島、筑前、筑後、肥前などを測量、佐世保にて越年。  
” 10 1813 68 九州の残りの海岸と街道、壱岐、津島、五島、中国地方の残りの諸街道を測量して姫路で越年。
長男景敬死去(47才)。
副隊長、坂部貞兵衛五島列島福江島にて死去(42才)。 
暦局火災にかかり、書籍、書類等焼失。
” 11 1814 69 近畿、中部地方の街道など測量し5月江戸に戻る。4年越しの{第八次測量}終わる。
江戸の屋敷を八丁堀亀島町に移す。
高橋景保、書物奉行を兼務。
” 12 1815 70 {第九次測量} 2月江戸府内の第1次測量。4月より下役、内弟子を派遣して伊豆七島測量、(忠敬は老齢のため不参加)。熱海にて越年。  
” 13 1816 71 引き続き、富士宮、箱根、川越、熊谷を経て4月帰着。
{第十次測量} 江戸府内の第2次測量。
「大日本沿海與地全図」の作成にとりかかる。
「仏国暦象編斥妄」を著す。 
間重富死去 (61才)。
” 14 1817 72 「大日本沿海與地全図」の作成を続けるが、体力とみに衰える。高橋景保「新訂万国全図」作成
イギリス船、浦賀来航。
文政元1818 73 4月13日(陽暦5月17日)八丁堀亀島町の屋敷で死去。
遺言により浅草源空寺の高橋至時の墓のそばに葬る。
景敬の妻りて死去。孫、銕之助死去。
カシニ フランス地形図完成。
” 4 1821 +3  7月「大日本沿海與地全図」完成、幕府に提出。
9月はじめて忠敬の喪を公表する。
幕府は、忠敬の功により、孫忠誨に五人扶持と町屋敷を与え、永代帯刀を許す。
  
” 5 1822 +4  妙薫死去。忠誨佐原へ帰る。
佐藤一斎、忠敬の墓碑銘をつくる。
イギリス船浦賀来航、薪水を求める。
” 6 1823 +5  源空寺に忠敬の墓碑建立。シーボルト来日
” 10 1827 +9  忠誨死去(21才)。  
” 11 1828 +10  シーボルト事件起こる。
高橋景保投獄。
” 12 1829 +11  高橋景保獄死。
シーボルト国外追放。
文久元 1861 +43 英国艦隊が来日し沿海を測量した際、幕府役人の持つ伊能小図を見て、その正確さに驚く。艦長は幕府と交渉して同図を譲り受け、沿岸測量を止めて帰る。ロシア軍艦、津島占領を企画。
慶応3 1867 +49 幕府開成所より伊能小図をもととした「官板実測日本地図」(木版刷り)を発行。  
明治4 1871 +53伊能特別小図の近代版、川上寛編「大日本地図」(ケバ式採用、伊能図の空白部を補ったもの)を発行。廃藩置県。
” 6 1873 +55 五月、皇居の炎上により、太政官内に保管されていた伊能図全部が焼失。  
” 17 1884 +66 陸軍参謀本部は、伊能中図を基本とした「輯製20万分1図」をつくり始める。「輯製20万分1図」は昭和4年まで使われた。伊能図は上呈後108年も生きていた。
大正12 1923 +105 関東大震災により東京帝国大学に保管されていた伊能図副本はすべて焼失した。関東大震災。




この略年譜は「伊能忠敬」小島一仁著、「伊能忠敬の科学的業績」保柳睦美編著、「新説・伊能忠敬」佐久間達夫著、「日本史年表」東京堂出版、「忠敬と伊能図」伊能忠敬研究会編、等を参考にした。
初版 2000-09-22





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