小槻(おつき)大社

栗東市下戸山1200 (平成16年11月23日)

東経135度59分43.1秒、北緯35度0分12.83秒に鎮座。

ここも又式内社、東京と云うかってのど田舎に住んでいる身にはとてもうらやましい。それにしても、ここに至る迄の道のりは苦難の連続でした。地図にはのっていないし、最初は分からず、栗東歴史民俗博物館で地図をもらい、説明を聞き、やっとたどり着きました。栗東市観光協会でも紹介してあり、栗東ICより車で10分と書いてあるが、断言します、絶対に10分では着けません。地図も案内も無く、観光協会の説明は無責任!

と書いておいたところ草津市在住の方より以下のメールを戴きました。どうも地元の方には容易な道のようです。

こんにちは、滋賀県草津市在住の者です。栗東市の小槻大社の場所が良く分からないとのことですが、その小槻大社と草津市の小槻神社は名神高速道路をはさんで隣同士にあります。とゆうか名神高速ができる前は社叢がつながっていたはずです。歩くにはちょっと遠いですが歩いても行ける距離です。

小槻大社社歴
祭神 於知別命・大己貴命
主神於知別命は垂仁天皇の皇子で小月山君の祖である。日本武尊の御祖父にあたり近江国湖南地方を統治されその後裔の小槻山公は連綿として本邦を領治し開発した名族である。この氏族は小槻山公及び小槻臣あり、何れも当郡に住し続日本紀、正倉院文書、三代実録等にその氏人の記事が所載され、小槻宿称家壬生官務家もその後裔である。
配祀神大己貴命は大国主命とも申し殖産、療病、禁厭の法を定め給うた神でその徳を敬慕して当社に併せ祀られたものである。小槻大社は小杖大明神と称し、延喜式所載の祈年の奉幣に預った栗太八座の一つで貞観五年十二月(863)に従五位下、貞観十七年十二月には従五位上に隆り元慶六年十月(882)さらに正五位下に進み、醍醐天皇の延喜十一年二月(911)には詔して従四位下を加へ奉られている。中園太政大臣の日記「園太暦」には康永三年八月(1344)正一位の極位に昇叙されたことが記録されており、また本殿の棟札写にもこのことが見え、代々綸旨院宣異国降伏の勲功少なからずとも記されている。中世には青地庄の領主、青地家の尊崇を篤くし、本殿内陣安置宮殿両側壁には弘安四年十月(1281)の年記のもとに青地氏一族の名を墨書し、永正十六年建立の現本殿は青地元真が造替している。戦国末期に及んでは青地氏もその勢力昔日の如くならず、慶長十三年膳所藩主戸田左衛門は田三反歩納米五斗を寄進し尓後代々の藩主は先規に任せてこれを安堵した。明治九年社格制定に際して村社に列し、明治十四年十二月には郷社に加列された。
例祭は古代卯月初卯日であったが明治改暦以後五月初卯日に定め、明治四十二年より五月五日と改めた。
例祭 五月五日
重要文化財(昭和三十三年五月十四日指定
小槻大社本殿(永正十六年(一五一九)建立
附 宮殿 一基
境内由緒書より。

神社入口

拝殿

これが永正16年(1519)建立の本殿、一間社流造、檜皮葺きの社殿は勿論国の重文。変っているのは、普通参道にいる狛犬が本殿内におられます。

吽が小さい角付の鼻筋が通った京尾立狛犬。拡大写真はこちら。
(大正4年(1915)10月建立)

裏参道入口