小槻(おつき)神社

草津市青地町873 (平成16年11月23日)

東経135度58分49.15秒、北緯34度59分52.24秒に鎮座。

この神社は、JR東海道本線・草津駅の南東2.5km程の辺り、青地町に鎮座しております。町名の青地は室町時代から戦国時代にかけてこの地を支配した青地氏に由来するようです。又、境内は戦国時代にあった青地城跡に接するようです。又北東1.5km程の辺りに同じ御祭神を祀った小槻大社があります。

小槻神社由緒
小槻神社とは延喜式神名帳に載るところの旧栗太郡八座の内にあり、第十一代垂仁天皇の皇子於知別命より出て栗太に連なる山脈を守った名族小月山公の氏人が祖神を祀り産土神となすを始とします。天児屋根命は中世合祀され勧請年月不詳ながら旧記によれば貞観二年(860年) 正一位小槻大明神の宣旨を賜う、とあり天徳三年(959年) 志津地(香の池)の傍に遷座の頃より池の宮と申すとあります。
延慶宝暦年間二度社殿宝蔵を焼き惜くも古記神宝を失いましたが天正九年(1581年) 宗源宣旨正一位池の宮大明神号証を現存します。
貞治三年(北朝)(1364年) 青地城主神輿造営以来例祭には城中に迎えて礼を尽し下戸山小槻社に向い尚小汐井社を経て還御。後年これを廃し後日の証として瓶一個宛を別ち、今も小汐井社の神宝となし当社は焼失した模様です。
弘長永禄年間崇敬厚き青地城主は幾度か寄進修造を重ねて明治十四年御本社大造営の結果現社容を拝し同十六年郷社に加列せらる。
当社には伝来の龍神池龍王像を安置尊像を池中に沈めて喜雨を得近邑の人々大いにこれを祈ります。
境内由緒書より。

御祭神 於知別命
第11代垂仁天皇皇子で、落別命・祖別命とも書く。小槻山君(後の小槻氏)の祖とされる。
古代に栗太郡(現在の草津市・栗東市一帯)の豪族小槻山君(小月山公とも)が祖神として於知別命を祀ったのが創祀とされる。小槻山君は朝廷に采女を献上していたことから、栗太郡郡司クラスの家柄だったと推測されている。付近には同じく落別命(於知別命に同じ)を祭神とする小槻大社が残っており、その勢力が伺える。小槻山君は貞観15年(873年)京に居を移し、のち小槻氏(官務家)として朝廷に仕える。
社伝では貞観2年(860年)正一位小槻大明神の宣旨を賜うとあり、天徳3年(959年)現在の志津池付近に遷座し、小槻大社の「小杖宮」に対し「池の宮」と称した。延慶・宝暦年間には2度社殿と神宝等を焼失している。室町時代から戦国時代にかけては青地氏の崇敬を受け、社殿寄進の他、例祭の際には城中に神輿を迎えたと言われる。
同じく延喜式内社である小汐井神社と深い関係にあると言われ、貞治3年(正平19年、1364年)の神輿造営以来、例祭の際には神輿は小槻大社・小汐井神社を巡っていたが、これを廃すにあたり小汐井神社の神宝・瓶子を分かち合い関係の証にしたと言われる。小槻神社のものは焼失したが、小汐井神社では現在も神宝としている。
明治9年(1876年)村社に列し、同14年(1881年)大造営後同16年(1883年)郷社に昇格した。現在の社殿は明治14年建造。
境内は戦国時代にあった青地城跡に接する。敷地内の石垣には古墳の石材が用いられている。付近には雨乞いが行われたとされる志津池がある。
ウィキペディアより。

神社入口

天を仰いで何を待っているのでしょう

こちらでは見かけることの少ない子付き狛犬

拡大写真はこちら。
(明治45年(1912)1月建立)

拝殿

本殿、式内社の貫禄です。