毛長神社

草加市新里町342 (平成27年5月18日)

東経139度47分00.56秒、北緯35度48分22.01秒に鎮座。

【神社情報・来戸さんより】
日暮里・舎人ライナー「舎人」駅より東へ徒歩20数分の所に鎮座しています。日暮里・舎人ライナー「見沼代親水公園」駅で下車、諏訪神社参拝後当神社を訪れました。

御祭神 女の長い髪

御由緒
新里町は新里村と称し、往古は谷古田領に属す。天正十八年(西暦1590年)徳川家康入府の後、天領となる。元禄十五年(西暦1702年)東叡山、寛永寺となり、明治四年(西暦1871年)埼玉県管轄となる。
毛長神社の創建は詳びらかでないが、「地誌材料稿」新里編に、「奉修造毛長大明神宮一宇氏子繁昌諸人快楽攸、享保十乙巳九月廿一日別当御幣山泉蔵院法印融儀」という棟札の写しが記録されている。享保時における修造と泉蔵院との別当関係が理解できる。
御神体は女性の髪の毛であることは、諸記録・土地の伝承によって、これを知ることができる。髪は素盞嗚尊の妹姫のものとも、村の長者の娘のものとも云われている。神体の髪に関する伝承は諸説あって一様でないが、「女の長い髪」であることは一致する。髪の毛を神体とする神社は全国でも稀らしい。本県では、おそらくこの毛長神社一社だけではなかろうか。その意味でこの神社の存在とその伝説の継承されていることは、貴重なものといえる。
鳥居は白小目御影石造りのもので、社殿に比してやや上等である。この鳥居はもとは水戸家の屋敷内の神社にあったが、出入の商人尾張屋兵助なる者が、譲り受け、更に当社の氏子代表が特に懇請して買い受けたものである。その輸送は舟によって、隅田川から綾瀬川を経て毛長川をさかのぼって、新里村に入り、境内地に建立されたという(長堀家文書)。
境内案内板 草加市教育委員会 より

全国でも珍しい「女性の長い髪の毛」を御神体とする神社。谷塚駅の南西約2kmの毛長川沿い(新里町)に鎮座する。創建ははっきりしないが、棟札の写しには享保10(1725)年9月25日修築の記録があることから、300年ほど前と推定される。
髪の主は素戔嗚尊の妹姫、村の長者の娘など諸説ある。鳥居は白の御影石造で、もとは水戸藩の屋敷内にあった鳥居を出入りの商人が譲り受け、神社の氏子の願いで移設したという。
草加市公式サイト>そうか辞典>毛長神社 より

祭~詳ならず、稻荷雷~を合祀す、此社毛長沼の邊にあり、沼を隔て々舎人町に祀れる諏訪社を男神と稱し、當社を女社と稱せり、
古は髪毛を筥に納めて~體とせしが、何の頃にやかゝる不淨の物を~體とするはあるまじきことなりとて、毛長沼に流し捨しと云傳ふ、~號も是より起りしにや、又毛長沼の邊にあるによるか、
新編武蔵風土記稿 新里村 より

<3> 毛長沼(新里町)
足立区と草加の境を流れる毛長川。昭和に改修されたこの川は、かつては新里地域の沼地をくねって進まねばなりませんでした。今では、もう形をとどめていませんが、この一帯は人々に毛長沼と呼ばれてきました。毛長沼にまつわる言い伝えは数多くあり、それぞれが当時の村人の姿をかい間見せてくれます。ある時、対岸の舎人(とねり)村から新里村へ供を従えて長者がやってきました。かねてより頭を痛めていた治水のための話し合いと兼ねて、肥よくな土地を持つ新里村の農作物の様子を見たいと訪れたのでした。供の者の中には、長者の息子も加わっていました。いくつもの作物蔵を見てまわり、さて帰ろうと沼を渡る舟に、一行がいましも乗りこもうとしていた時……ふと、ふりかえった若者の目をとらえたものは、沼のほとりに一人立ち、蓮の花を見やる娘の姿でした。色白の面立ち、なびく黒髪……「あれは女神様の化身だろうか」……若者はつぶやくのでした。
やがて若者は、その折の女性が新里の長者の娘と知り、村おさに頼み縁談を申し入れました。その結果、両家の親、娘ともこれに応じて二人はめでたく結ばれるはこびになりました。娘が嫁ぐ日も近づいた、ちょうどそのころ、新里の村には疫病が入り込んできました。疫病は猛威をふるいはじめ、床に伏す人が村中にでてくるありさまでした。こうしたうわさは沼を隔てた村々にも伝わり、たたりが及ぶと恐れた舎人の村人達は、長者に二人の破談をせまりました。疫病は一向におさまらず、そうこうしているうち両長者とも縁組をあきらめる事態になってしまいました。新里村では、命を落す者もではじめ、そんななかで娘は舎人の若者が破談をひどく嘆いていることを伝え聞くにおよんで、心痛も極まってしまいました。何日かたった大あらしの晩、娘はちぎれんばかりに髪を乱しながら沼へ身を沈めてしまいました。あらしが去り、疫病もおさまったある日、舎人の岸辺に長い黒髪が流れ着きました。村人達はこれが身投げをした新里の娘の髪だと悟ると、大いに悲しみました。一方、新里の村人達も長者の娘をいとおしみ、社(やしろ)を建ててここに娘の髪をご神体としてまつり、毛長神社と名づけました。
広報そうか 第360号 昭和56年5月5日号(恋情秘めた娘の黒髪)

神社入口と白小目御影石造りの鳥居

拝殿

手水舎か、公園の水飲み場か

左右の木鼻

奥殿

毛長川とけなが橋