川圦(かわいり)神社

加須市外野153(平成19年2月21日)

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
 神社は、羽生外野栗橋線を栗橋方面に向かい、道路から左に少し入った外野地区にあります。大正12年(手前)と昭和7年の狛犬が迎えてくれます。写真を撮った時には気が付かなかったのですが、末社に正保元年(1644) の年号が刻んであり、けっこう古い年代だと思いました。先代の手水石は正徳5年(1715)です。神社には「川圦さま」の伝承があります。

 大越の外野にある川圦神社は、もとは堤防の外、つまり現在の河川敷のなかにあった。そこには川圦河岸という舟着場があって、毎日大変にぎわっていたが、舟運の廃止でいつしか河岸は姿を消してしまった。また、利根の改修で堤防が拡幅されたため、川圦神社もやむなく現在地に移転を余儀なくされたのである。ある年、連日の大雨で水かさが増し、堤が切れそうになった。神や仏に一心に祈ったのだが、水は一向にひかず、村人のなかから「人柱をたてなければ村が危ない」という声が出てきた。そのとき、川が越えられないで近くに止まっていた六部に皆の目が向けられた。興奮した村人によって、母娘2人の六部が激流に投げ込まれたのはそれから間もなくのことであった。ようやく雨はやみ、堤もことなきを得たが、それから村に疫病がはやったり、作物が不作になったり、悪いことが続くようになった。
洪水から村を救うためとはいえ、旅の六部を人柱として利根川に投げ込んだ村人は、それがだれ言うとなくその後村に不幸が続くのは「六部のたたりだ」ということになったので、恐怖に恐れおののき生きた心地もなくなってしまった。村人の間では、「はやくなんとかなってくれればよいが」と心中で神々に祈ったのだが、不幸は次から次へと続いた。そこで、村の長老は、村中に起こっている不幸と、人柱の話を「このままにしては置けない」と寄り寄り相談をして、六部の霊を川圦神社に祀り丁重に供養した。ところが間もなく不幸なできごとも治まり、村人も安心して家業に精を出すことができるようになった。人間はこのように、何か困ったことが起きると、自分に都合のよい理由をつけて、何のかかわりもない人を犠牲にしやすいが、それはやがてわが身にはね返ってくるものだ、ということを心しなければならない。川圦神社は最近改築されて立派になった。
(利根川上流河川事務所HPより)

 「川圦神社」という社名は珍しく、「圦」とは「《「圦樋(いりひ)」の略》土手の下に樋(とい)を埋め、水の出入りを調節する場所。水門。樋口(ひぐち)。樋(ひ)の口。」( 大辞泉より)とありますから、本来は川の導水口とか水門という意味であると思われます。この社のみならず利根川中流域周辺には水神信仰が盛んで、人柱伝承も数多く残されています。恐らくは実話というよりも、洪水・水害の恐ろしさを集団内(村内)で維持・持続させ、教育するための話なのかも知れません。
 又、この社は上記の六部の伝承が応永34年(1427)となっておりますので、室町中期頃の創建の様です。

神社入口 鳥居の額には、双龍が彫り込まれています。
大正12年生まれの江戸くずし狛犬。この横広顔で、彫りが立体的な堅い感じの狛犬は福島県でよく見た記憶があります。阿は玉を押さえた極小さな子狛を連れ、吽はのびをしている様な恰好の子狛を連れています。
(石刻師 臺群鴻 大正12年建立)
江戸川区北葛西の豊栄稲荷神社に同じ石工の狛犬があります。
昭和7年生まれの江戸くずし狛犬。この狛犬は江戸狛犬に近く、眉毛が垂れているせいで穏和な、ややお年寄りの感じがします。関東型の狛犬が上げた脚を岩に置くのは珍しいですね。
(昭和7年建立)
拝殿
拝殿の扁額 拝殿内に本殿が鎮座しています。
「川圦さま」の伝承案内
正徳5年(1715)奉納の先代手水石
正保元年(1644) の年号が刻んである末社(一番手前)とその他末社二社