古谷神社

川越市古谷上 (平成22年2月11日)

東経139度31分27.02秒、北緯35度54分57.32秒に鎮座。

この神社は、川越市の東3km程の辺り、畑に浮かぶ島のような、小さな古墳の上に鎮座しております。

古谷神社の由来
新編武蔵風土記稿(天保元年「1830」江戸幕府編纂)に伊佐沼は長さ十七町、巾三町余とあり、メートルに直すと長さ約1850米、巾約330米となり、県道川越上尾線から十六号迄伊佐沼だった事が記されています。
赤城山の沼の霊を祀った群馬県勢多郡宮城村三夜沢鎮座の赤城神社(現前橋市三夜沢町の赤城神社)をこの塚上に勧請(文和年中、1351年)した時は、ここの西側は伊佐沼でした。当時の人達はたびたび起る洪水がこの伊佐沼辺では荒れ狂わない様、お願いする為に、赤城神社をお祀りしたのではないでしょうか。又本殿西側にお祀りして居ります、水神様は元荒川の上江橋(古谷小学校の南東側)脇からお移ししました。この辺では他にも古谷本郷上組、大宮市西遊馬高木などにも水の神弁財天(厳島神社)をお祀りしています。水難の多い地方ならではの事でしょう。
又この塚は古墳と云う方が多いのですが、発掘した記録もなく確定出来ません。ここのすぐ南東五十米位の所に熊野神社を祀った塚がありました。その跡から墳輪(埴輪?)、直刀、土器が出ていますし、古谷上蔵根215からも埴輪、土器が出て居り、県内行田市の古墳とほぼ同年代(六世紀末か、七世紀始め)のもので、同じ水田地帯で条件もよく似ていますが、何とも云えません。この赤城神社に大正二年から大正四年にかけて古谷上内の神社を本社と末社に合祀したのが、現在の古谷神社で次の通りです。
別記。伊佐沼を造成した伊佐氏の先祖は赤城神社で、ご祭神豊城入彦命で、これもご祭神のお導きかと思います。

古谷上の足跡
この場所から南東100米位の所から埴輪、土器が出土1500年位前の古墳からと云われ、集落と有力者が存在していた。貞観四年(863)古尾谷八幡神社創建、古谷本郷には平安後期、鎌倉期の仏像があり、古尾谷庄古谷上村は豊かな米作地として共に栄えて来た。
この赤城神社は文和年中(1351)に勧請された。当時は古谷上も戦場になり戦火に見舞われた。徳川幕府は新田開発を進め荒川を寛永六年(1629)熊谷より水路を変え古谷上を通り、握津蔵根は洪水敷きに入り、洪水の常襲地帯となり、寛保二年(1742)の堤防決壊の洪水は奥貫友山公のお話で有名で、明治以降政府治水対策に力を入れ大正末より昭和初めの河川改修で荒川は直線化され握津を通り握津は洪水敷となり住民は転出され無住の日を迎える時至り、握津の氏神様五社を当社に合祀いたしました。この期に古谷上苦楽の足跡を記しました。
境内由緒書より。全文はこちら。

社号標と神社入り口

一と二の鳥居

参道の石段

石段上左右の狛犬。天明の狛犬にしては、損傷も僅かで、保存状態の良い、且つ出来も大変良い狛犬です。拡大写真はこちら

(天明5年(1785)乙巳9月吉日建立)

拝殿

本殿

天神宮

石碑

合祀された日枝神社の猿だったのでしょうか

石碑

姥神様

石祠

絵馬