松枝(まつえだ)神社

佐賀市川副町大詫間 (平成29年4月7日)

東経130度20分53.64秒、北緯33度10分45.63秒に鎮座。

この神社は、佐賀空港の北東5km程の辺り、早津江川を筑後川に挟まれた中洲の中央近くに鎮座しております。

御祭神 

由緒
大詫間島は、筑後川河口に松の大枝が流れ着き、その枝に上流からの土砂が堆積してできた三角州だと伝えられている。松枝神社に伝わる八大竜王社記によると鍋島勝茂が大野島、今の福岡県大川市大野島の寄洲に占有権を示す龍王の神石を建てて其の神石を中心に土砂が堆積、固結したので、元和9年(1623)同所に八大龍王の神祠を建てた。
寛永のころ(1624〜1643)干潟が成長して、肥・筑の境界争いが起きた。正保元年(1644)和議成立。高良神社と千栗神社の神幣を流して境界を決定した。その時、「佐賀市白山町武屋武富家の先祖が龍王社の北東に当たる泥土地に搦50町を築いて大詫間村と称した」とある。
その時神幣(柴)が通った跡が、今も通り柴の地名として残っており、大詫間と大野島の境界となっている。わが国には三千以上に及ぶ大小の島があるが、一つの島で二県にまたがっているのはこの島だけであり、近世まではそれぞれ佐賀藩、柳川藩に属していたこともあって、歴史、民俗、言語等が大いに異なっているという特徴がある。松枝神社は、その後正保4年(1647)に社殿を東通柴(現在地)に移し、昭和48年(1973)の御遷座350年式年大祭に本殿を再建した。
毎年10月第2日曜日の供日(くんち)には、伝承芸能の浮立大神楽が奉納される。町内に現存する浮立は、ほかに犬井道海童神社のものがあり、昭和57年(1982)、共に町の重要無形民俗文化財として指定を受けた。
境内由緒書き より。

大野島(おおのしま)・大詫間(おおだくま)は福岡県大川市と佐賀県佐賀市にまたがる三角州。筑後川の最下流にある島。福岡県側と佐賀県側とで名称が異なる。島の北半分(福岡県域)を「大野島」と呼び、南半分(佐賀県域)を「大詫間」と呼ぶ。
筑後川は大量の土砂を運搬し続けており、過去数百年の間にも流れを少しずつ変えてきている。16世紀ごろまでに、筑後川の河口には2つの三角州が出現した。北の三角州は「雄島」または「平尾島」(後に「大野島」と呼ばれるようになる)、南の三角州は「雌島」(後に「大詫間」「大詫間島」と呼ばれるようになる)と呼ばれるようになり、すぐに開拓も始まった。しかし、河岸の柳川藩と佐賀藩は両島の領有を巡って対立し、最終的には柳川藩が大野島を領有・佐賀藩が大詫間島を領有することで決着した。これは正保の時代に松平伊豆守の調停によって決まったとされるが、他にもいくつかの説がある。

だが、当初あった2つの三角州の間にもさらに土砂の堆積が続き、2つの三角州は陸続きとなって1つの三角州になった。陸続きとなってからは再び領有が争われたようだが、筑後川の上流から御幣を流してそれが漂着した地点を境界にすることで決着したらしい。このとき決まった境界には「通り柴」という水路が開削された[1]。廃藩置県の際には藩境がそのまま継承されて、現在は三角州の中央を北西から南東に斜めに県境が走り、北が福岡県、南が佐賀県となっている。

「郷土大野島村史」によれば、「一つの島が二藩二県に分かれているのは、日本全国の三千余の島々中唯一のものらしい」としているが、実際には瀬戸内海の大槌島、石島(井島)、甲島などいくつかの例がある。
ウィキペディア より

参道入口と一の鳥居

神額

二の鳥居

参道左右の狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和18年(1943)1月15日建立)
手水舎と手水岩。説明はこちら。

拝殿

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。
(文政2年(1819)己卯7月吉祥日建立)

本殿


忠霊社

石祠等